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    因島散歩
 
 

  因島マップ



 因島は本四連絡橋・しまなみ海道のなかにある向島と生口島につながる島です。造船業が盛んな島でもある。 以前に因島水軍城へ行きました。今回は注文したヨットの部品の受け取りに弓削海の駅より因島へ行く。

 往きは弓削より因島土生まで今治発の連絡船に乗る。土生で下船して、弓削にはホ-ムセンタ-がないので因島モ-ルまでタクシ-で行く。そこで工具等を購入した。 ここより土生発三原行の別会社の船便があり、乗船して途中の重井で下船した。 ここから因島マリ-ナへは徒歩になる。途中の民家は独特な作りで左官のワザなのか土蔵風の塗りこめの窓が珍しくこの土地だけのものなのかと思われる。



 重井の民家その1



 重井の民家その2

 

 丘を越えて次の入り江まで歩くのだが、途中の丘上には除虫菊畑があるようで、その入り口の看板があった。因島ではキンチョ-の島なのであろうか。 丘を下ったところにコ-プの店があり、弁当と水を購入。島の中でこの種の店をみつけるのは珍しいので、それなりの人口があるのでしょう。 ほどなく青木城跡の案内板を見つけた。 すぐ近くに因島マリ-ナがあり部品を引き取り一刻も早くそれをエンジンに取りつけて出港したいので城跡へ行くのは断念した。



 青木城跡 海抜50.6m



 重井まで来た道を帰り、土生までの乗船時間が長いので、バス便にして土生まで帰った。 島の常だが交通の乗り換え待ち時間が長く、今度は弓削の船便を待つ間に、船具屋に立ち寄りバルブ関連の用品を買う。 その向えにホテルがあり、そこは村上水軍の長崎城跡です。 ちょうど昼時でランチをやっていて2800円也とのこと。 部品代にお金が掛かったおり、分不相応と辞退しました。



長崎城  海から眺める




 長崎城

  海賊城は見張りが重要で、船舶の動静を常に監視する必要がある。従い、水道・水路の脇には城跡があることになる、今回は見ることができなかったが、荒神山城、島前城、山伏山城、天神山城など因島には多く城・砦があるようです。弓削に立ち寄った際には自転車で見て歩きたいと思っております。



    2019-7-24

 


  館林城 と 館林散歩


  最近亡くなられた友人Oさんと散歩した大事な思い出になります。   
    

  館林城と惣構



 徳川家康が関東に入府したとき、各地の要所に主要な家来を置き城と城下町を作らせ防備を固めた。その一つが榊原康政が築いた10万石の館林城と町である。1661年には家光の4男・綱吉が25万石でここに入封した。
そして彼は1680年に5代将軍になる。


  東部伊勢崎線の館林駅より友人に導かれてタクシ-で向井千秋記念館に向かった。 そこは天文台を思わせるような建物がある。 しかし、それからは想像できない館林城の本丸のあったところである。 城好きの老人にはこの建物は新地の大きな道路わきに立つべきものであると思われる。 そこと田山花袋記念館の間を抜けると土塁が見られる。八幡社がありその地は八幡郭の地である。本丸、八幡郭、南郭には堀で隔てられていたが現在はこの城の堀は多くは埋められていてその幅も現在の道路幅よりは大きくあったように見受けられた。

 

   八幡社

 八幡郭には明治まで続いた秋元家(1836-1869)の別邸がある。明治期の建物らしく欧風な感じもして中を見ることはなかったけれど、趣深い建物である。


 旧秋元別邸  八幡郭にあると思われる


 尾曳橋に続がる道路から尾曳稲荷の旗が見られたのでそこへ行く。 稲荷郭のあった位置である。 同じように本丸、稲荷郭、外郭は堀で隔てられていたが、現在は埋められている。


 尾曳稲荷神社


 稲荷郭には旧モスリン事務所(第2資料館)や田山花袋旧宅など興味深い建物が見られた。


 旧上毛モスリン事務所



  旧田山花袋宅


 2の丸には館林市役所が建っている。 本丸との堀は埋められているが、大きな広場がある。同様に3の丸との間も埋められている。 3の丸にある第一資料館は図書館の中にあります。 展示物に城郭模型があり、それを見ると良くわかります。

2の丸にある 市役所  友人Oさんが写っています


 3の丸にある土橋門は復元されたもの。 この辺りには土塁などよく残っていて唯一城跡の風情が残っているところである。



  土橋門


  土橋門を出て分かりにくいけれど敷石がひかれた道路があり、それが歴史の小路と呼ばれている。 そこを駅に向かって歩いた。  途中で田中正蔵記念館、武鷹館、長屋門、見番組合事務所,などを訪ねて館林駅に着いた。




 田中正蔵K記念館  足尾鉱毒事件を戦う



 武鷹館 旧館林藩士住宅   尾曳町から移転した中級武士の宅



  長屋門  豪農松澤家から移築



  見番組合事務所  芸者置屋組合事務所




  昼食は館林名物のうどんを食した。 午後は惣構えの中にある町人町を散策する。 江戸口から佐野口に至る日光脇往還を歩いた。立派な案内パンフレットがあるが、実際にあるいてみると見るべきものが見当たらず、期待倒れであった。 江戸口は単なる交差点で碑も無く地図で推測しないと分からなかった。ひたすら熱いなかで車の行きかう道路脇を歩く。これが本当の日光湧く往還・道路であるか。 佐野口は土塀と堀が分かり古図どうりであった。




 江戸口



 佐野口御門跡石碑




  佐野口  あたりの土塁と堀


 市立第一中学の敷地の北西角で直角に土塀と堀は曲がっている。 校舎内であるので立ち入りはできないが、ここらあたりは良く残っている。


 中学校の北西角


 中学を過ぎると間もなく堀が埋められていてたどれなくなった。 地方道前橋館林線の道路(古河往還で大手門へ繋がる)脇に太田口門跡石碑を見つけた。


 太田口御門石碑


 愛宕神社、 感性寺、 覚応寺、 応声字とお寺の集まる地域を歩く。 応声寺ではお城から拝領した城鐘を見た。


  愛宕神社



 応声寺  鐘楼堂  城から払い下げられた鐘


  ほどなく、館林駅に着いた。 朝9時から昼食をはさんで午後3時までの館林散歩となった。

 館林の惣郭は湿地・沼地の台地上に作られていたのが分かった。 堀の外側は一段と下がっている。 歩いていて高低差に注意すると境目が分かるようである。

 外郭の北側の総郭にある加法師口、下戸張の城への門口は確かめられなかった。友人もここに住んでいるので、また、訪れよう。



     2021-6-28




生口島一周、  中江ノ島・世界遺産、 春日集落・世界遺産
  

   平戸から生口島



 生月島 観光図



 平戸へ来るのは3回目になります。 前回は路線バスで生口島に行っています。  念願のオラショを見て来ました。 今度は観光案内所の企画の生口島観光ツアーに参加しました。土日祭のみの決行で1人でも行われます。 当日はマイクロバスにガイドさん独り占めで2000円でした。採算割れでしょうが、何でもガイドさんに質問もでき最高のツアーとなりました。

  平戸から生口大橋を渡り、沖にある中江ノ島を望む。東岸を行くと、文政年間には日本一の捕鯨量を誇っていた捕鯨納屋跡がある。 北端の大バエ灯台で対馬が見えるというが、あいにく望めなかった。 西岸を南下して塩俵の断崖を見る。 玄武岩で出来た柱状の岩である。 西岸は人家がほとんどなく季節風の関係であろうか。  また、大橋を抜け春日集落へ向かう。 世界遺産の集落であるが、今でも現役の段々畑が見られる。

 

 中江の島  世界遺産



  大バエ灯台



 塩俵断崖  御崎柱状節理 



  春日集落と安満岳  世界遺産



     2022-12-20




     大村藩 五小路武家屋敷通り


 大村氏は、古代平安時代に藤原直澄が四国から移り住み大村氏を名乗ってから、中世の戦国時代、江戸時代から幕末、明治維新にいたるまで絶えることなく大村地方を治めてきた、非常にまれな大名という。

 大村城・玖島城が築かれると、その周辺に新たな町が整備され、藩主の側近など家臣が移ってきました。こうして、玖島城下に武家屋敷街ができました。武家屋敷街は城を中心に5つの通りが作られ「五(ご)小路(こうじ)」と呼びました。 [本小路][上小路][小姓小路][草場小路][外浦小路]の五つです。


 二万七千石の余り大きな藩でないので、徒歩で城下町の風情を味わうことができる。

 

 下記写真の概ね位置図



    大村藩     武家屋敷 詳細分布図



 1. 草場小路

 岩永家や長与家など五家があった、円融寺もあり。

 




 円融寺  庭園

 

 円融寺には大村37志士の墓がある



 2. 上小路・うわこうじ

 針尾家や浅田家などの家老屋敷も多く重臣の屋敷が多かったようです。幕末には、斎藤歓之助が開いた剣術道場「微神堂(びしんどう)」もあった。

 




 斎藤道場跡



 上小路



 3. 本小路

 大村藩会所・五教館・上級家臣の屋敷が並び、大村五郎兵衛・大村翁助など、幕末には14戸の屋敷があった。



 五教館御成門



 稲田家 家老屋敷跡    愛宕山東側にある  今は人は住んでいない模様




 4. 小姓小路・こしょうこうじ

 小姓衆が住んだ通りであることから小姓小路と名付けられました。後には、小姓衆だけでなく、他の家臣も住んでいた。



 小姓小路 案内板



  小姓小路



 中尾元締役旧宅   伊能忠敬の測量助手を務めたという



 5. 外浦小・ほかうらこうじ

 大正時代に師範学校が建設された際に、通りの大部分が消滅し、通り自体がわかりにくくなっています。現在では大村園芸高校が建っている。



 外浦小路 石碑



 港内の垣根の奥に石垣が見えるが、屋敷跡の名残か?



    2022-12-27