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フェ-トン号事件と捨て足軽

戦国日本とフィリピン

 










  



   薩土盟約  御手洗4藩軍事同盟


  薩長同盟が成立、第2次長州征討に長州が勝利、大政奉還、王政復古、鳥羽伏見の戦い、江戸無血開城の流れで明治維新が成立したと理解してはいる。
 薩度盟約、薩長芸3藩盟約、御手洗条約などの最近知ったものとの続がりが、小生にはよく分からないので整理してみました。


 幕末年表

1866年 慶応2    1/21     薩長同盟
           6/7     第2次長州征討
          7/20 将軍家茂死去
          8/20 徳川慶喜将軍就任
                    

   徳川慶喜

           8/21    孝明天皇、長州征討停戦命ず
           12/25    孝明天皇崩御

1867年 慶応3  3月  島津久光 藩兵1000人と入京
         5月  四侯会議 島津久光、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城
         5/23  徳川慶喜の勝利、四侯会議失敗
         5/25  薩摩武力討幕を指向
         6/12  龍馬の船中八策
         6月  後藤象二郎は容堂に大政奉還を提言
         6/19  島津久光は長州の品川や山県と引見
         6/22  薩土盟約 薩摩・小松、西郷、大久保と土佐・後藤、
             寺村、真鍋、福岡、 浪人・龍馬、中岡が陪席
             大政奉還を薩摩が了解、これにより西郷が挙兵のために長州派遣を中止。
         6/28  芸州・辻に同意を得る
         8/14  長州へ大政奉還建白は武力討幕への大義名分と説明
         9/8  薩長芸三藩盟約による共同出兵計画
         9/9  薩土盟約は解消
         9/28  久光が討幕否定の通達
         10/3  土佐による建白書提出 
         10/4  芸州による大政奉還の建白
         10/8  三藩の討幕再確認   
         10/14  大政奉還が実行 、討幕の目論見が白紙に
         11月初旬 御手洗で薩長芸土4藩の軍事同盟密約と新政府綱領8策を結ぶ。
              長州・大村益次郎・山県有朋、薩摩・大久保・大山格之助、
              芸州・池田徳太郎・船越洋之助、土佐・龍馬・後藤象二郎
         11/8  龍馬御手洗を立つ
         11/15  龍馬暗殺 
         11/26  御手洗条約 長州軍を芸州藩が上方に先導する約定
         12/9  王政復古 薩摩と土佐の対立を芸州辻が討幕にまとめる
1868 慶応4    1/3  鳥羽伏見の戦い
          4/11 江戸城無血開城
          9/8  明治に改元

 

 譜代による幕府の専制政治がくずれて、喫緊の課題の解決のために薩摩は四侯会議にる打開を試みた。雄藩連合による政治・薩摩の目論見は慶喜の巻き返しにより失敗した。薩摩は武力討伐を指向する。薩摩は大政奉還が成るとは思わないが、それの拒否が討幕の大義を得ることになるということで、土佐の提言にのり、龍馬や中岡の陪席により1867年6月に薩土盟約を結ぶ。これは議会政治の採用による手段としての大政奉還による王政復古を採択し、武力討幕を原則回避する方針となった。

 約定書の内容は以下の7箇条から成る。
1.大政の全権は朝廷にあり、皇国の制度や法の一切は京都の議事堂から出るべきである。
2.議事院は諸藩の費用供出で成り立つ。
3.上院と下院を分け、議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで正義の者を選挙し、諸侯も職掌によって上院に充てる。
4.将軍職は執政の最高官ではないので、徳川慶喜は職を辞して諸侯の列に戻り、政権を朝廷に帰するべきである。
5.諸外国との条約は兵庫港(神戸)で新たに外務大臣が交渉し、新条約を制定して通商を行う。
6.律令以来弊害のある朝廷の制度を刷新し、地球上に恥じない国体を建てる。
7.皇国復興の議事に当たる者は公平無私を貫き、人心一和して議論を行うべきである。

 しかし1867年9月9日盟約は解消される。土佐と薩摩は同床異夢であった。それより前の9月8日に薩長芸による出兵盟約がかわされている。薩長の思惑とは異なり将軍慶喜は大政奉還を受け入れる。


   山内容堂

 土佐の容堂の意向とは異なり11月に薩長芸土による御手洗の討幕密約がなる。(これはつい最近述べられるようになった)その下旬には御手洗条約にて長州軍を芸州が上方に先導する条約が成る。王政復古が宣言され、薩摩の独断専行の先駆けにより鳥羽伏見の戦いに勝利して、明治維新が成る。



  御手洗薩長芸土4藩軍事同盟密約は軍事同盟と新政府綱領8策が御手洗で龍馬も参加して結ばれる。この密儀は龍馬が60年間黙っているように皆へ約束をさせた。ゆえに新谷道太郎がその期間を経て世に出す。彼はそのために山陰に隠れて生活する。まだ定説になっていないが本当でしょう。 龍馬はそ後で御手洗から京にのぼりまもなく暗殺された。 龍馬を暗殺した犯人が薩摩黒幕説があるが、御手洗で龍馬ともども4藩同盟成立あるのなら、それほど日数が暗殺まで経ていないのだから、薩摩節は無いと思われる。


              2018-1-28



      新島襄と快風丸


 新島襄 1843-1890


 新島襄は安中藩士に生まれた。安中藩は備中松山藩の分家です。 新島は幕府の軍艦操練所で学んだことから、備中松山藩が購入した洋式帆船(スク-ナ-)快風丸の廻航を頼まれた。 その縁で、快風丸の函館行の運行があり、米国への密航の思いで乗船し、函館に行く。 藩の乗船許可が下りないのでわざわざ備中松山藩から安中藩へ願い出て許可をもらう。 函館でアメリカ密入国をさせてくれる船を捜す。坂本龍馬の親類の沼部琢磨などの協力を得て、米船ベルリン号にて上海に渡り、ワイルド・ロ-ヴァ-号に乗り換えてボストンに着いた。
 その船主であったA,ハ-デイ夫妻の援助を受ける。この当時の米国の慈善はすばらしい。彼だけではなく他の日本人が援助を受けた話は耳にします。
 アマ-スト大学では学士を取得。札幌農学校に来日するクラ-ク博士の授業を受講。そのきっかけで彼は来日することになったという。
 新島は岩倉使節団の通訳として参加。ヨ-ロッパに渡り教育制度の報告書を提出し、それが明治の学制改革に大きな影響を与えた。 宣教師となり日本に帰国。 大河ドラマ「八重の桜」では、学校設立のために講演を行い5000ドルの寄付を集めるシ-ンがある。ハ-デイ夫妻が演説原稿を読みこの内容では寄付は集められないと、事前にアメリカン・ボ-ドの有力者に寄付を頼んだ故であるという。日本へ来て同支社大学を建設するくだりは皆様ご覧になってよくお知りになっているでしょう。
 彼は因縁の有る快風丸で備中松山へ行き、伝道しています。その演説で女子教育に活躍する福西志計子に大きな影響を与えた。


 快風丸

  快風丸諸元

 155トン、全長31.5m、全幅 6.8m、 ニュ-ヨ-ク建造「ゴ-ウルノルワラス」 1862年・文久2・9月 18,000ドルで購入


    2019-8-3




     早島陣屋・早島城・天城陣屋


早島陣屋、早島城、天城陣屋の図



 晴耕雨読ならぬ晴航雨城である小生。 倉敷にヨットを係留している。そこでクル-ジング準備・整備中の雨天は城廻りとなる。 今回はJR瀬戸大橋線の早島駅で下車して早島城・早島陣屋・天城陣屋をカサさして歩いて来ました。 写真は雨のために鮮明を欠くものがあります。

 駅を降りて早島公園に向かう。 ところどころに昔の民家風の建物がある。 また、宇喜多堤の案内があった。 悪名高い宇喜多氏といえども堤をつくり、後に教科書にも載る児島干拓の最初の一歩となり領地経営には力を尽くした。



 早島町の民家



 児島と早島  昔は瀬戸をなし水路を船が通行して水運の要所であった。



 赤い線は堤の位置



 宇喜多堤石碑



 早島陣屋を探す。 そこは現在では小学校になっていて、横に案内板があるのみであった。 別名戸川陣屋と言い200年間治めたという。 あいにく休館日で戸川記念館を見ることができなかった。 戸川秀安は宇喜多直家の重臣で25000石を領した。国政を宇喜多秀家にまかされたが対立するようになり、家康預かりとなる。関ケ原で東軍に参じ功を挙げて庭瀬29200石を与えられる。その後断絶したが、家名存続を許されて幕府旗本として続く。



 戸川記念館



  早島陣屋 1709年築  わずかに残る堀と石橋



 その小学校の裏手奥に早島公園がある。 そこは城山ともいい早島城の跡地である。 遺構らしきものは見当たらなかった。その城主は武井将監といわれる。 備中高松城の前哨戦で高松城の北にある支城・冠山城の戦いで将監は加藤清正と一騎打ちで戦い死亡したという。秀吉はあっぱれと金子50両を与えたという。



 公園内の城らしい雰囲気の場所



 早島城の坂を下って今度は天城陣屋に向かう。 早島町は平成の大合併に加わらなかったので岡山で一番小さな町ゆえか趣のある民家が散見される。



 早島から天城へ向かう途中の民家1



 早島から天城へ向かう途中の民家2



  笹無山の案内板を見かけた。 源平合戦には詳しくないが、ここらあたりで藤戸合戦があったという。当時にはこの向こうは海で瀬戸を挟んで源平が対陣していた。源氏は海が不得手なので対岸の種松へ行くのに難儀する。佐々木盛綱は地元の漁師に浅瀬を聞き、先導させて馬で海を渡り源氏の勝利に貢献した。佐々木盛綱はその浦人を殺してしまう。残された母親は笹と聞けば憎いと言い、笹を抜き取った、それからこの地では笹無になったと云う。






 笹無山



 笹無山   藤戸合戦説明板




 なかなか天城陣屋を見つけられなかったが、高校の隣山にあるグランドであると分かった この陣屋は―国一城の制で岡山藩の下津井城が廃城になり、池田由之はこの地にお茶屋と称して陣屋を立てた。
 池田由之(1577-1618)は池田恒興の嫡男元助の嫡男として誕生。小牧長久手戦いで父・祖父ともに戦死。幼児であったので叔父の池田輝政が家督を継ぐ。長じて32000石で下津井城番になる。本家の国替えとともに播磨・鳥取・岡山とその居を変えた。最後は恨みに寄り大小姓に殺害された。






 天城陣屋跡  現在は天城高校グランド


 駅を降りてJR3駅ほど雨天を歩いたことになる、途中にタクシ-やバスを探すが見つからず。さすがに疲れて帰りはGoogl mapでバス停をみつけて帰る。


      2021-1-31

 

 

   人名政の島


 江戸時代の特異な制度の人名政は塩飽諸島の島々に適用されました。 そこは瀬戸内交通の要の地であるゆえ、古くから塩飽海賊の地であった。 秀吉の時代になって朱印状が与えられて、租税を免除され、公儀の海上輸送義務を負った。徳川幕府にも引き続かれた。 四人の年寄を設け自治を許される。政務は塩飽勤番所で行われた。 「人名」はなじみが無いが大名、小名、人名と続くことばであるのが分かる。 人名は1250石高を領有し、650人の加古役のものを呼ぶ。人名は個人に与えられたものであるが、株と同様に取り扱われた。

 それらを訪ねることができたのでまとめてみました。


 赤丸は人名政の島々とその集落


1. 与島

2. 本島

3. 広島

4. 手島

5. 佐柳島

6. 高見島

7. 沙弥島 (しゃみじま)

 今は陸続きになっていますが、かっては島でした。 柿本人麻呂がこの沖で遭難して流れ着き、歌が万葉集にあるとかで、歌碑があります。


   
 
 またこの島は弘法大使の弟子の理源大師がこの島の生まれたました。彼の胎盤を大きな石でフタをしたということで、それに触れるとたたりがあると、今でも漁港の入り口にふさぐように岩あり、それを残して漁港整備されました。


  


  

  真ん中の大きな石  瀬戸大橋が見える


8. 瀬居島

  今は陸に続がって坂出市の一部になっている。


9. 牛島

 本島の南にある島。 丸亀市から連絡船2便/日。
豪商であった丸尾五左衛門の住居が残る。咸臨丸の乗組員も他の島と同じようにこの島より出ている。

10. 櫃石島・ひついし島

 下津井の南にある島で最も本土側に近い島である。 島へ行くには、島民しか車で入れないので、バス便を利用することになる。

  咸臨丸の乗組員50名のうち35名が塩飽諸島の出身であるのでこの島も3名が乗り組む。


   2022-1-13


 

マリア・ルス号事件と芸娼妓解放令

マリア・ルス号

 この年になっても、小学生の時に見たテレビのニュ-スを覚えているものである。それはその年齢の子供には何を意味したのか分からない赤線廃止を伝える報道でした。映像で写っていた子供がなぜか塀ごしに中をのぞき見しているものでした。           
 人間の最古の職業といわれるお仕事ですので、今もその遊郭の雰囲気を残して自由恋愛と称して営業している店が関西にあるという。
 面白いことに、芸娼妓解放令は、明治5年(1872年)に日本の横浜港に停泊中のマリア・ルス号(ペルー船籍)内の清国人苦力を奴隷であるとして、大江卓を裁判長とする特設裁判所は解放を命じた事件を契機としていた。

 ペル-政府はこの事件に関して謝罪と賠償を要求した。この紛争解決のために仲裁契約が結ばれて、ロシアにおいて国際仲裁裁判が行われた。全権公使として榎本武揚が選ばれ、その法廷で、明治8年(1875年)日本側の措置は国際法にも条約にも違反せずとの判決が下された。

 明治の体制がまだ整わない中で、よくできた維新政府の英断である。しかしその中で日本の芸娼妓の問題はどうなのか?と追及された。政府は明治5年(1872年)太政官布告・芸娼妓解放令を発した。それは人身売買は禁止だが、売春そのものは禁止でなかったため、昭和32年の売春防止法・赤線廃止まで続くことになる。


吉原遊郭

 最近では児童買春の報道がやたらと多いように思います。オランダやドイツでは飾り窓で堂々と営業しているところもあります。国が変われば価値観が違うようです。

 話が前後するが、第1次大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会で、日本は人種差別撤廃を明記すべきと提案した。マリア・ルス号事件ともども日本は国際的に主張して発展させることができなかったのは、その後に大きな災いを避けられたかもと思います。後付けの言い方ですね。残念なことではあるが。

   2017-10-11

  幕末開国まとめ


 

 

西郷南洲顕彰館と西郷洞窟


  西郷隆盛の関連地図


  鹿児島城を訪ねたときに西郷洞窟、終焉の地、銃弾跡,私学校跡を見た。 西南戦争は私学校から城山で激戦があったのが分かる。最後は西郷洞窟から終焉の地に行き、そこで西郷隆盛は亡くなられたのである。

 ほどなく、西郷南洲顕彰顕彰館を訪ねた。 南洲神社・公園の一角に顕彰館は位置する。 西郷の思想・生涯・功績などが紹介されている。

 凡な小生には今もって西郷さんのことは分からない。それゆえ凡なのであろう。 西南戦争においても維新の時にはあれほど謀議をつくしたのに、戦闘を指揮したわけでもなく、策謀をつくしたわけでもない。 やりようによっては勝てたかもしれないのに、明治以降の西郷による違った世界を見てみたいように思えます。



  私学校の案内板 「おはんら何たることをしでかしたか」


  私学校跡


  西南戦争の銃弾跡 



  西郷隆盛の終焉の地


  西郷洞窟


   西郷隆盛  磯田道史サンによる

   西郷陣屋


        2023-7-19

 

 

 

  幕末の四兄弟


 左から、松平定敬・桑名藩、松平容保・会津藩、一橋茂栄・一橋家、徳川慶勝・尾張藩


 明治11年に撮った写真が上載のものです。有名な会津藩主松平容保をはじめいずれも幕末に活躍した。 その父は美濃高須藩主の松平義建(よしたつ)である。彼は、父・義和(よしなり)が水戸藩のは部屋住みであったが高須藩に養子として入った。高須藩は尾張藩の連枝の藩で水戸藩や一橋家ともうごっちゃまぜであります。義建は10男を成しており詳細は

 長男:源之助 1820年生、夭折
 次男:慶勝 尾張藩尾張徳川家養子
 三男:武成 浜田藩越智松平家養子
 四男:整三郎 1826年生、夭折
 五男:茂栄 高須藩主(義比)→尾張藩主(茂徳)→一橋徳川家養子(茂栄)
 六男:某 戊辰戦争で切腹
 七男:容保 会津藩会津松平家養子
 八男:定敬 桑名藩久松松平家養子
 九男:鐡丸 1849年生、夭折
 十男:義勇 高須藩主

 1. 徳川慶勝

 尾張14代藩主になり尊王攘夷を主張して安政の大獄で隠居謹慎を命じられる。弟の茂徳が15代藩主となった。桜田門外の変により復権し弟が隠居して、実子の義宜が16代藩主となり、慶勝は実権をにぎる。第1次長州征討の総督となる。内乱による外国干渉を慶勝は大いに危惧することから長州への寛大な処置をとった。長州への再征にも反対する。 鳥羽伏見の戦いのあと、500もの朝廷への帰順を誓約する書面を送りそれを受け取る。そのことで朝廷軍は江戸上洛を戦争することなく成し遂げる。明治への態勢を決めた最大の功労者といえるが、あまり知られていないようだ。

 2. 徳川茂徳(もちなが)茂栄(もちはる)

  高須藩11代藩主となる。兄慶勝の隠居謹慎で尾張15代藩主となった。兄慶勝の子を養子としていたので、隠居後はその義宜が16代藩主となる。15代将軍慶喜に代わって一橋家当主を継承して茂栄(もちはる)となった。徳川一族の総代的な役割で新政府と交渉にあたる。

 3. 松平容保 

 義和の子に、義建・高須藩主と容敬(かたたか)会津藩主がいた。義建の子容保と容敬の娘を結婚させ、養嗣子とした。会津藩9代藩主となる。京都守護職になった、これ以降幕末で活躍する。

 4. 松平定敬(さだあき)

 桑名藩主松平 定猷(まつだいら さだみち)の娘の婿養子となる。1863年京都所司代になった。禁門の変では兄容保と協力して京都を守る。鳥羽伏見の戦い後は謹慎した。藩論が恭順になり、桑名への帰国がかなわず、飛び地の柏崎にうつる。その後、会津で兄容保と再会し仙台より榎本の艦隊で函館へ渡った。函館戦争終結後上海に渡るが、逃亡を断念して明治2年に降伏して5年に赦される。西南戦争では元藩士を率いて遠征した。


          2017-1-22

 

 


薩摩藩 英国留学生記念館    いちき串木野



 記念館


 串木野駅からバスで薩摩藩英国留学生記念館へ行く。 あいにく雨で風の強い日和であった。 開館の30分前であったが、気持ちよく入場させてくれた。 帰りには、上写真の赤い送迎バスでヨット停泊地まで親切に送ってもらう。

 薩摩人のスゴイところは攘夷の気分が昂揚している時でも、薩英戦争で負けたのではなく実際は引き分けなのだが、自ら方針を固執することなく変更して、敵国英国へ留学生を派遣して学ぼうとするところである。 同じように長州も馬関戦争後に留学生を出すことになる。 薩長とも維新を成し遂げたわけだ。

 串木野で再度世界一周を準備しているNさんにお会いしたが、ここの地だからこその出来事だと云えよう。


 

 薩摩英国留学生


 

 テラスに作られている船のコックピット

 その日は時化の船上を想起させるような光景であった。


  詳しくは下記をご覧ください。

  薩摩藩 第1次英国留学生

  薩摩藩 第2次米国留学生

  長州ファイブ・5傑



               2023-7-2

 

   隠岐神社  因屋城
    




  菱浦と隠岐神社、   赤丸は菱浦ヨット係留地



  中の島の菱浦にヨットを係留した。 そこからフェリ-乗場にある観光案内所で自転車を借りて、隠岐神社に向かった。 フェリ-の到着時間に合わせてそこへ行くバスもある。 菱浦から諏訪湾沿いに海士町の役場を経由して隠岐神社に行くことができる。 所要時間は15-20分位でしょう。  

 隠岐神社は後鳥羽上皇を祀った神社である。 後鳥羽上皇が1221年(承久3年)執権北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れて隠岐に流された。NHKの大河ドラマで、もうすぐ承久の乱について放映されると思う。 御在所跡、御火葬塚、資料館を見た。




  隠岐神社 鳥居




  隠岐神社 拝殿



  後鳥羽上皇 御在所跡



 後鳥羽天皇御火葬塚、  1236年後鳥羽上皇が崩御され火葬



 ここの帰りに村上家と因屋城を訪ねた



  村上家と因屋城中の島

 

 後鳥羽上皇をお世話した村上家である。 資料館で案内の方に村上海賊とは関係があるのかどうかと尋ねた。 その関係した資料は見つからないと答えられた。 しかし村上海賊に関係した子孫の方はこの島にいるということです。 江戸時代であるのか明治なのか定かではないが、全国長者番着けにこの村上家は載っている。かなりの有力者であったのでしょう。  というより敷地から因屋城に行ける。 敷地の中に祖先が作った城跡の遺跡を持つ。 有力豪族であったのだろう。





 村上家・資料館



 戦国期には毛利に味方し1566年尼子についた丹後・但馬の海賊衆が攻めよせてきたが撃退した。




  因屋城の案内板





  本丸跡、(標高20m)  朝霞神社の祠


          2022-8-28

 

 

   渡辺昇を訪ねて  大村藩
    

 渡辺昇 1838-1913


  来年(2023年)の春まで、大村港にヨットを越冬することになった。 その係留準備作業を終えて、自宅にかえるまでの数日に大村城周辺を友人から自転車を借りて散策した。 大村城や五小路武家屋敷通りを見学。

 鞍馬天狗として描かれたのではないかと云われた渡辺昇について興味を持ち、地元に何かないかと尋ね歩いた。彼については下記のように取り上げている。


   渡辺昇と大村藩

   http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-567


 渡辺昇について観光案内所では何も知らないようである。 図書館と歴史資料館の人に尋ねても詳しくはないようだ。 旧楠木正隆屋敷の前の案内板に渡辺昇と兄・清 兄弟の屋敷跡の図があった。 そこらあたり訪ねる。 しかし、地元の人に尋ねた、80歳になるおばあちゃんにも聞いたが、確かな記憶は無いようだ。 役所の作った案内板も存在せず。 明治になって昇・子爵と清・男爵になった兄弟であるが、維新の成就とともに東京に行って栄達し、地元への貢献が少なかったのであろう、地元では忘れられてしまったようだ。

 個人的には彼は剣豪で、幕末には多くの人を切った。栄達して、それを思い出し、眠れない夜を過ごしたと云うので、むべなるかなとも思われるが。



 楠木正隆邸と渡辺昇邸  案内図



  上図にある渡辺昇・清邸跡と思われる交差点



 渡辺清の娘・石井筆子 (1861-1944)は女子教育や知的障碍者の施設の維持・発展に尽くし、ここ大村に銅像が立つ。オランダ、仏で2年間学び英語・仏語・蘭語が話せ鹿鳴館の華とも云われたという。



  石井筆子 銅像、  父や叔父さんのものは地元にはない



    2022-12-5

 

 

      藤堂高虎

 

 1556-1630
 
 藤堂高虎の作ったお城を今年に見る機会があり、興味を持ったので書いています。 今まで抱いていたものとは違った人間像が見えてきました。 浅井に属した人間が明治まで生き延びたのですから、たいしたものです。

 下の年表にあるように主なものでも、浅井家、豊臣秀長、豊臣秀吉、徳川家康と主君を変えています。それでも家康の死亡の際にはわざわざ臨終に呼ばれた最も信頼された外様大名です。
 変節漢と言われていましたが、人情に厚く、禄だけでは人は心服しないと言い、情けをもって家臣と接しないようでは禄を無駄に捨てるようなものであると述べている。また実際仕えた落ちぶれた元主君の子息を仕官させるよう骨折っています。

  年表
1556 近江の藤堂村で生誕

1570 姉川の戦いで浅井長政の足軽

1573 浅井家滅亡 阿閉 貞征、磯野 員昌、津田 信澄に仕える

1576 豊臣秀長に300石で仕える

1581 3000石加増、鉄砲大将

1583 賤ヶ岳の戦いで1300石加増

1585 紀州征伐で5000石になる、四国攻めで5400石加増で1万石の大名

1587 九州征伐で2万石に加増,正5位佐渡守に叙任

1591 秀長嫡男秀保に仕え文禄の役で戦う

1595 秀保の早逝で高野山へ、生駒親正に説得され還俗、5万石に加増され宇和島7万石の大名になる

1597 慶長の役で大洲1万石を加増で8万石

1600 東軍として関が原に参戦、今治12万石を加増され20万石に

1608 22万石で津へ転封

1614.1615 大阪冬の陣と夏の陣に参戦、5万石加増で27万石に

1617 5万石加増され32万石に

1623 死去

 今年に行ってみた見た宇和島城、今治城、甘崎城など高虎が築城したものです。名手といわれて下記のように多くの城に関わりました。


  藤堂高虎の関係した城


・1585(天正11年) 丹波・出石城

・1586(天正13年) 大和・郡山城

・1587(天正14年) 京都・聚楽第(縄張り)

・1587(天正15年) 紀伊・猿岡山城

・1594(文禄3年) 京都・伏見城(秀吉の命により助工)

・1596(慶長元年) 伊予・宇和島城

・1597年(慶長2年) 伊予・大洲城

・1601(慶長6年) 近江・膳所城(築城助工及び縄張り)

・1602(慶長7年) 伊予・今治城及び伏見城の修理助役

・1606(慶長11年) 江戸城大修理の縄張り

・1608(慶長13年) 伊勢・津城の大改築及び伊賀上野城の大改築
            甘崎城 廃城
・1609(慶長14年) 丹波・篠山城

・1610年(慶長15年) 丹波・亀山城の普請の手伝い

・1619(元和5年) 京都・二条城の縄張り及び和歌山城の石垣工事

・1620(元和6年) 大坂城の修復

・1623(元和9年) 山城・淀城築城の普請を手伝う

    2016-11-7


  旧郷土史と歴史   http://hayame.net/custom21.html

  旧お城巡り   http://hayame.net/custom27.html



 

 

   永平寺

 

 福井駅、永平寺、一乗谷

 福井駅より永平寺行の直通バスに乗った。 30分ほどかかる。 着いて参道の坂道を登ると、大きな寺院建物・伽藍を目にする。

子供の頃に親がここへ行った覚えがあります。 最近は神社と教会をよく訪ねて取り上げている。それにしては宗教に縁遠い老人であるので、永平寺は禅の何かのお寺である程度の知識です。 オソマツながら、テレビの番組で見た座禅を組んでいた修行僧がパチンと肩を打たれる映像ぐらいしか浮かばない。 見学中に若い彼らをよく見かけます、話しかけないで下さいと注意書きがある。

  道元(1200-1253)は南宋に渡り学んで帰国して、比叡山と対立する。その弾圧を避けるために地頭の波多野氏の招きで1244年に曹洞宗の永平寺をここに開く。 現在は大小七十余りの建物を持つ曹洞宗の大本山である。

 

  案内図

 残念ながら建物の形や姿は良いのであるが、コンクリート造りが多いように見受ける。 もちろん木造製の建物もある。 案内書きにまかせて館内を濡れることなく巡回できるけれど、外側で階段を踏みしめながらの参詣も良いので、どちらが良いのかは好みの問題であるかもしれない。

 

  参道から正面の永平寺

 

 傘松閣 内部天井

 

 

 

 中雀門  その奥に仏殿

 

  左の吉祥閣と右の傘松閣

 

 山門

 

         2024-4-11

 

 

 

 

 

   長町武家屋敷 金沢

 

 金沢駅よりバスで香林坊にて下車してここは徒歩5分です。

  金沢有名観光地

 

 大野用水沿いに加賀藩の上・中級武士の屋敷がある。 お城に近いほど上士が住むものであるが、100万石の格ゆえに他藩では家老をつとめる者でもここでは中士・平士である。

 加賀藩の家臣団は、軍事組織と行政組織の2つを組み合わせたもので5代藩主綱紀によって編制されたものである。
「八家」から「平士」までの階層は、「御昵近の侍」と呼ばれ、藩主へのお目通りが許されていた。「人持組」に次ぐ身分の「平士」には、藩主の大部分が属し、幕末の資料によると1400家を数えた。知行高は、最小80石から最大2400石に及び、中には切米取や扶持米取もいたようである。
 藩内のほとんどの役職は、平士階級に属する藩士たちによって管理・支配され、加賀藩における行政組織の中枢をなしていた。


 現在も居住者が居り、ほとんどが非公開である。 高田家の中へ入った。 母屋は無く庭園になっている。

 

  大野用水

 用水は流れが予想よりも速く、清水が流れている。

 

  長屋門の武家屋敷

 

 

 旧高田家跡  550石の藩士であった、440坪あったと云う

 

    2024-4-13

 

 

 

   ひがし茶屋街  金沢

 京都駅より1日巡回バス券 800円を購入してここを訪ねる。 街並み保存地区であり、よく整備保存されている。 お昼の訪問であったので、京都で見かけると云う芸妓さんは見かけなかったけれども、若いカップルが和装してポーズを決めてカメラマンが撮影しているの見た。 このようなツアーがあるのであろうか、他所でも目にする。

 金沢芸妓   https://kanazawageigi.jp/chaya/higashi.html

 

  金沢有名観光地

 

 「ひがし」と「主計町」 茶屋街図

上の2つの他に「西茶屋街」があるというが、訪ねていない。

 

  ひがし茶屋街 その1

 

  ひがし茶屋街 その2

 

 

  ひがし茶屋街 その3

 

  主計町茶屋街  浅野川沿いにある

 

  泉鏡花記念館

 

      2024-4-15

 

 

 

   ジョン万次郎資料館

 

 土佐清水 周辺図

 愛南かわうそ海の駅より停泊地に不安があった宿毛を避けて土佐清水越にヨットを廻した。そこから38番金剛福寺とジョン万次郎資料館を訪れる。 資料館は廃止になった長距離フェリーのターミナルを改装して使われている。

 

 資料館

 

 展示の内容はジョン万次郎の生涯をたどっていけるようになっている。 貧しい片親の家に生まれた万次郎が寺子屋にも行かずに漁師になり、遭難して米国捕鯨船に助けられて船長の援助を受けて学び、日本に帰国して龍馬などに影響を与えて、士分に取り上げられて和親条約締結に向けて活躍し、教育者になり航海術や英語などを教えた。

 

       土佐清水越 ヨット泊地

 

      2024-7-26

 

 

   高知歴史散歩 龍馬生家

 はりやま橋のバス停で下車、レンタサイクルを借りるべく近くを探したが、JR高知駅に行くことになる。スマホ使用のものは見つかったが、老人には使いこなせずに断念したので。 下図のように歴史的なところを自転車で徘徊した。 

 

  高知歴史散歩 地図



 

  はりまや橋

 日本三大がっかり地点であるというが、高校の修学旅行ですでに見ていたので驚くことはなかった。

 

    龍馬の生家

 坂本龍馬の家は郷士であったのでお城から遠いところにあるのかと思いきや意外と近くであった。 お城の南側の電車筋にある。 現在は病院が建っていた。

  龍馬の生家、   現在は上町病院



  近藤長次郎邸跡碑

 長崎でお墓を訪ねたが長次郎の邸跡に行く。 龍馬の家の近くであったが道路わきにあり見つけられずに近くで尋ねた。

 

  大川筋 武家屋敷資料館

  土佐藩の武士,旧手嶋家の住宅で当時の武家の建築様式を残している城下では唯一の建造物です。 武家屋敷がもっと残っていそうですが、下屋敷位しか武家屋敷風の建物がないようです。

 

  旧山内家下屋敷長屋展示館

 

  展示館内にあった夕顔丸の模型




  武智瑞山殉節の地

 この付近に、武士の牢屋である揚屋(あがりや)があった。武市瑞山が当時切腹したこの付近になる。

 

 野中兼山邸跡、 ほとんど城中というような追手門前にある

  野中兼山は、土佐藩の2代藩主と3代藩主に仕えた家老。新田開発や土木事業で功績がある一方、領民に対して過酷な賦役を行い、晩年に失脚している。 

 

  板垣退助誕生地

  板垣は中岡慎太郎と共に西郷らに会って、武力討伐の薩土密約を結び、戊辰の役では土佐藩の立役者となった。 

 

 後藤象二郎生誕地

 日本キリスト教団土佐教会、聖泉幼稚園の門前に後藤象二郎先生誕生之地の碑がある。坂本龍馬とは慶応3(1867)年長崎で逢い、時局を論じてからは龍馬の策も受け入れ、東洋暗殺、勤王党の断罪という旧怨を越えて行動を共にするようになった。龍馬と船中八策をまとめ、大政奉還建白では容堂の許可もとりつけ、将軍慶喜への進言にも成功した。


 

 福岡孝弟先生誕生地碑

  藩主の側役となり公武合体運動に尽力した。また坂本龍馬の海援隊などと提携し、藩営商社開成館を通じて殖産興業策を推進した。明治維新後には越前藩の由利公正とともに五箇条の御誓文を起草した。


 

植木枝盛生誕地

 自由民権運動に加わった理論的指導者の植木枝盛の生誕地に建つ碑。枝盛が構想した「東洋大日本国国憲按」は、最も民主的、急進的な内容であった。「自由は土佐の山間より出づ」は枝盛の残した言葉として有

 

 

  吉田東洋受難の碑

 吉田東洋は、文化13年(1816)生まれ、長宗我部の名将吉田正重より出ているといわれる。学才に優れ、郡奉行・船奉行を経て十五代藩主山内容堂に抜擢され、参政の職についた。長浜に鶴田塾(小林塾)を開いて、後藤象二郎・板垣退助・岩崎弥太郎・福岡孝弟らを教えた。文久2年(1862)4月、外出先から帰宅する途中で土佐勤王党の党員の手にかかり、暗殺された。



  

 立志社

  立志社は、明治7(1874)年4月10日、帯屋町の旧兵舎跡で発会式をあげ、その後このあたりにあった旧町会所跡を山内家から買い取って本拠地とした。 高知に戻った板垣は、板垣より先に帰郷して失業士族の生活救済、その子弟の教育機関としての学校の設立準備を進めていた片岡健吉・林有造らと協議し、同年に愛国公党によって建白された民撰議院の開設を期待する政治思想を折り込んだ結社として発足することとなった。


  長州の萩と比べて、高知は石碑が残るばかりで面白味が欠ける印象を持った。 萩の前原一誠宅などは現在も建物があり、表札があり縁者が住まれているようで見学は出来ないけれど納得感があった。



       2024-8-9





     龍馬姉夫婦のお墓

 27番神峯寺へ参詣を終えた帰りに安田のまちへ行くことになった。 ここは勘違いで、後に行くことになる吉良川の歴史的町並みの事だと思っていた。 安田のまちなみ交流館を訪れたけれど近くの街並みは古いものが残っていなかった。 近くに龍馬の姉の千鶴の嫁いだ高松順蔵とのお墓があったので行くことにした。

 

  安田 周辺図

 

 高松順蔵は1807(文化4)年に郷士の長男として生まれた。 8歳で郷士職を継ぎ、江戸で学問を学び、剣術を極めます。
また書や篆刻を学び、和歌をたしなむ文化人でした。
 坂本龍馬の長姉・千鶴の夫で、若き日の龍馬の思想形成に大きな影響を与えました。 私塾には中岡慎太郎、石田英吉らがいました。 

 

 坂本直 1842-1898

 順蔵の長男の高松直は土佐勤皇党に属し、龍馬の紹介で勝海舟の海軍操練所に学び、龍馬と同じように脱藩し海援隊に入った。明治4年に龍馬の家督を相続して坂本直となる。晩年はキリスト教徒として弟の直寛(なおひろ)に厄介になる。

  

 こじんまりした夫婦の墓




       2024-8-14

 

 

 

    中岡慎太郎記念館と生家

 

 室戸岬港からバスに乗り奈半利へ着く。 そこから北川村のコミュニテイバスにて中岡慎太郎記念館に行って来た。 本数が少ないので時刻表には注意が必要である。

 

  中岡慎太郎、 北川村周辺図

 

 中岡慎太郎は龍馬と一緒に暗殺されたけれども、その彼のことを多くを知っているわけではない。

 大庄屋の長男として生まれたので帯刀はゆるされたであろうが、農民で竜馬のように郷士でさえないと思う。 土佐勤皇党に入り、それが弾圧されると脱藩し長州へ亡命する。そこに都落ちしていた七卿の衛士となる。禁門の変で負傷する。 下関戦争で攘夷を捨て開国論へ転じる。 竜馬と薩長同盟を締結させた。 竜馬と供に脱藩を許される。 板垣退助や谷干城と薩土倒幕挙兵の密約を結ぶ。 大政奉還の建白を推進していき薩土盟約の仲介する。 陸援隊を組織す。 薩土盟約解消。 大政奉還成立。 竜馬と暗殺される。 享年30。

 

  記念館

 

 

  記念館前に立つ像

 

 

  松林寺

 生家近くの松林寺で学ぶ、また山越えし苦労して麓の竜馬の姉が嫁いだ高松順蔵私塾へ通ったと云う。

 

  奈半利川の山間の誕生地

 

 

    中岡慎太郎の生家

 

 天保9年4月13日(1838年5月6日)、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現在の高知県安芸郡北川村柏木)に北川郷の大庄屋・中岡小傳次と後妻ウシの長男として生まれた。

 記念館の近くに少し下ったところにある。

 

 生家

 大庄屋といえども見てみると豪壮な家ではない。 山間の農家であったので貧しかったのであろう。

 

  内部

 

          2024-8-17






         大鳴門橋 渦の道


  長崎から徳島ケンチョピアまでキャンピングカーで訪ねてきてくれたヨット仲間と一緒に、その車で鳴門の「渦の道」を観光した。

 

  鳴門海峡と小鳴門


 

  友人はこの車とヨットを所有している


  大鳴門橋には車道の下に新幹線用のスペースが設けられている。 余談だが、小生は四国への橋は未だにこの1本だけで良かったと思っている。後の2本の橋の予算があれば新幹線を通して徳島-高松―松山と高知へと続がっていたと思う。現在は予想外に高速道路は四国各地に敷設されて充実しているようである。

 このスペースを利用して遊歩道があり「渦の道」と称している。 最近のニュ-スでサイクリング道をここを利用して淡路島へと結ぶ計画があるようだ。歩道橋として淡路島へと追加工事をあいていただければ横断徒歩するのも楽しいものである。 歩いて渡れるものと思っていたが現況ではダメでした。

 

  鳴門海峡


 ヨットで何度か通峡している。 その際には上の写真のように帆船観光船がいる四国側部分を航行する。

 

 最近は5000トンクラスのコンテナ船でも通るようです。

 

 前夜の午餐、 他のことでも大変お世話になっているUさんとFさん


 1番の霊山寺坂東捕虜収容所も訪れた。

 

  アヴェマリアのヴァイオリン 香川宣子

  http://gby.sblo.jp/article/190594734.html



     2024-9-3






    古代歴史年表




 57 中国の光武帝が奴国に金印を授ける 後漢書
107 倭国王帥升が後漢に使者を送る 後漢書
150 日本で大乱 後漢書他
193 倭国で飢饉があり新羅に難民が来た 三国史記新羅本紀
232 新羅の金城を倭国兵が囲む 三国史記新羅本紀
239 邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送る 三国志魏志倭人伝
248 卑弥呼が死、壱与が女王に 三国志魏志倭人伝
346 新羅の金城を倭国兵が囲む 三国史記新羅本紀
391 高句麗まで倭国が出兵 好太王の碑文
393 新羅の金城を倭国兵が囲む 三国史記新羅本紀
478 倭王武が宋に使者を送り、安東大将軍の称号を得る 宋書
527 筑紫国造磐井の乱
538 百済から仏教伝来
562 加羅(伽耶・任那)が新羅に滅ぼされる
587 蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす
593 聖徳太子が推古天皇の摂政に
600 聖徳太子新羅討伐 隋書 新羅本紀に記述なし
602 新羅討伐軍を起こすが渡海前に中止
603 冠位十二階制定 実力による登用
604 17条の憲法制定 和をもって貴しとする
607 隋の煬帝へ「日いずる処の天子」の手紙(小野妹子・遣隋使) 隋書
645 乙巳の変(中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺す)
659 出雲大社の神殿を修築
660 百済が滅びる
663 白村江の戦い 朝鮮半島から撤退
667 壬申の乱
712 古事記成立
720 日本書紀成立








     日本とユダヤの古代史&世界史   著・田中英道、茂木誠

 

     ワニブックス刊

 この本は邪馬台国の所在が阿波にあったという説を支持する小生がそれを補強するべく買い求めたものである。 

 田中英道は日ユ同祖論ではなく日ユ同化論を述べる、ユダヤの人々は国を持たなかったけれども、ひたすら宗教と伝統を守ってきた。それが日本では同化したというのは不思議なことです。そこらあたりの説明をもっと知りたいところではある。  日本は万年の縄文文化を持っており、そこへユダヤ人が渡来して、戦争をしなかった平和の縄文人が彼らを受け入れ彼らは日本に同化したものであると、小生は思っています。 

 下表にある第3波の徐福の跡を、鹿児島や三重県において小生は見かけている。 ここで波田須の道串木野祠をとりあげています。日本各地に徐福の跡があるようです。 応神天皇の時代には第4波の弓月国からら2万人のユダヤ系の人々の移民を受け入れる。(徐福は2千人です)  第5波の蘇我氏ですが、大化の改新・645年の時代になると蘇我氏は教科書にも登場してくるので知っている。ユダヤ人であったとは知りませんでした。 431年「エフェソス公会議」において景教・ネストリウス派は異端とされ東へ旅立ち日本にたどりつく。蘇我氏は「われよみがえり・我蘇」と呼んでいる。 これまでの自分が、ばらばらに学んでいた景教・蘇我氏が結びついてきました。

 

    ユダヤ人渡来の5つの波 、  本文より

 

第1波 紀元前13世紀 出エジプト記/縄文時代 日高見国・スサノオ
第2波 紀元前722年以降 アッシリア捕囚と失われた10支族 日本建国
第3波 紀元前2-3世紀 秦の始皇帝・徐福ら3千人 秦氏各地に渡来
第4波 3-4世紀 弓月国から秦氏2万人 応神天皇が受け入れ
第5波 431年以降 エフェソス公会議・ネストリウス派 蘇我氏


  あのピラミッドにも負けない巨大な古墳築造をを指導してきたのは秦氏・ユダヤの人々だという、仁徳天皇陵はユダヤのマナの壺の形にソックリな形状である。さもありなんと思われる。仏教が広まるとともに古墳は消えた事実も本書で知った。

 

 マナの壺

 仁徳天皇陵

 

 成田空港近くの柴山にはにわ博物館があるという、今度訪れたいと思っている。 そこに昔は「武将はにわ」と学んだつもりであったが、本書の指摘で明らかに「ユダヤ人埴輪」と考え直した。 ユダヤ人の「もみあげは」 聖徳太子もつけているし埴輪にも表現されている。

 

 長いモミアゲ・ペイオト姿のユダヤ教徒


 

 見ずら「美豆良・ペイオト」をつけるユダヤ人埴輪と聖徳太子


  友人が優秀な子供を持ちその子が医者になり、米国でユダヤ病院に勤務し、ユダヤ人と結婚している。 ユダヤ人に対して差別や偏見を持たない日本人でも、意識・教養の高い人には世界での差別の存在を認識・実感しているので、娘の亭主がユダヤ人かと指摘されると気色ばむことになるのでしょうか。 難しい問題である。デイ-プステ-トの世界支配の問題もあるしね。

 本書でも、樋口季一郎中将のユダヤ人の満州通過を即断し、戦前の東条首相ですら追認したことを述べています。

 「中国・朝鮮の文化圏としての日本史観は捨て、ユダヤ同化論を突き詰めて頂きたい、」

 「ユダヤ人たちが世界に対して何をやるべきかということは、平和の場所の伝統と文化に貢献することであろう」

 「日本という地で、ユダヤがいたということは、世界を考える上で重要な思考の礎になる」......... 田中英道氏による

 

 

天皇とユダヤの「3種の神器」に隠された驚愕の真実│茂木誠

https://www.youtube.com/watch?v=FrShBtLDggk

秦氏のルーツはユダヤ?秦の始皇帝?ローマ帝国?|茂木誠

https://www.youtube.com/watch?v=jGaYbjeOK5U

聖徳太子に隠された謎に迫る│茂木誠

https://www.youtube.com/watch?v=TKYpKFxLzek&t=10s

 

 世界第3次大戦前ともいわれる「新しき戦前」のこの時代、イスラエルがイランと戦火をまみえるようになれば、ロシア・中国・北朝鮮が漁夫の利とばかりにどう動くか分かりません。 日本とユダヤの平和的な関係が研究され明らかになっていくことを望むばかりである。

 

     阿波・邪馬台国と日神子・卑弥呼 邪馬台国は阿波にあったのか?    香川宣子さんによる

 

 未だ、自分自身にこなれた知といえないところは、バレてしまっていることでしょう。皆様の考えの一部になれれば良いです。

 

          2024-9-9






      ユダヤ埴輪  柴山はにわ博物館


 東京駅より総武線・快速で千葉へ、乗り換えて総武本線銚子行きに乗車、JR松尾駅で降車。 コミュニテイバスの時間が合わなくてタクシーにて「柴山はにわ博物館」へ着く。 帰りも待ち時間が多くなったので、今度は成田空港第1ターミナルからスカイライナーで帰ることになった。 コミュニテイバスの時刻を調べておく必要が大事であった。 「柴山はにわ通り」には成田空港行きシャトルバスがあるので、殿山古墳を先にするのもありかも。

 

 柴山マップ

 

  「日本とユダヤの古代史&世界史」を読んでいたので、さっそく柴山のはにわ博物館」へ行きました。 「ひげの武人はにわ」とも云われていますが、確かに顔の表情と云い独特のユダヤまげを結んでいることなど小生には「ユダヤ人はにわ」と実見・実感した。

 

 姫塚古墳出土、  人間と同じくらいの大きさがあり意外であった



 姫塚古墳出土、 「馬のはにわ」も出土

 

 この殿塚と姫塚の古墳は古墳時代後期の6世紀に築造されたという。 ユダヤ人渡来の5つの波(前著より)それの第4波や第5波の渡来人がここで定着・同化したと云えましょう。 その時代を年表で見てみよう。

 応神天皇の時代新羅の妨害で足止めされていた弓月君の2万人をに受け入れた。その子孫が秦氏であったと云いう。織物、土木技術、砂鉄や銅等の採鉱及び精錬、薬草など広めたという。 展示品の中に鉄剣があったのも納得である。

 縄文・弥生の時代には馬がいなかった。5世紀前後から馬が日本でつかわれるようになったという。 ここの古墳中期以降の遺跡に「馬のはにわ」があるのは先進的なことであろう。 地方の豪族となっていた渡来ユダヤ人が鉄剣をもち馬に乗っていたことがわかる。


         2024-9-17






     国内最大級の集落群、デーノタメ遺跡の謎!


   https://www.youtube.com/watch?v=xuo4kMYXKs8

 

 JR高崎線 北本駅より徒歩20分、北本団地行きバスにて団地東まで5分下車、徒歩1分。

 北本は高崎線で上野から高崎に行くまでの間に、路線の車窓景色が唯一とも云う、珍しく線路両側に樹が立っていて、その間を走っていく風情が眺められる。  首都圏から50km圏ゆえに住宅開発がバブルの時に1駅までの桶川で終息した。それゆえに住宅地造成か遅れて、武蔵野台地に雑木林が残った。 開発途中の区画整理地の道路計画でここが発見された。

 

 北本周辺図

 デーノタメ遺跡はこの秋に国指定の遺跡になる。縄文中期から後期の1200年間以上に渡って営まれた環濠集落である。 関東最大級のものとなる。100年に1度の発見と云われている。 遺跡と云えば貝殻や魚の骨であるが、それらは見つかっておらず、どんぐり・栗・クルミやヒスイ製品、表面や内部に大豆・小豆を埋め込んだ土器、ニワトコやコウゾの粒、ヒメコガネの死骸などが発見されている。住人が、食糧確保などに便利なように森林の植生(くるみの人工林)を改変するなどして暮らしていたことが推測されている。

 

  遺跡全体図



  発掘風景


 

 後期前葉集落跡

 


  低湿地跡

 

 中期後葉集落跡


 5-6年前のここを遺跡と知らぬ時に散歩したことが有る。 雑草が枯れた時期であったのであろうこの遺跡の中央部分には開けたところがあった。 そのつもりで今回はヤブの中に分け入った。 1m位の雑草が繁樹していてとんでもないヤブ漕ぎになってしまった。半ズボンであったので下肢は傷だらけになってしまう。 まもなく国指定され予算がついて来年度以降には公園整備されるであろうことから、中へ入るのは、しばらくお待ちになったほうが良いでしょう。

 

  大量の雑草   

 

      2024-9-23




 

  明治維新の裏方 フルベッキと大隈重信     大幡高通さん


 歴史とは、人類社会の過去における変遷興亡のありさま、記録であり、自然科学の反復する一般的法則に対し、歴史は反復できず、一回的、個性的なものと広辞苑にある。
歴史は過去に起こった諸々の事柄を集約し、時間をかけて定説が生まれ一つのものとして確立されるべきだが、資料の読み方・評価判定の仕方に依って諸説に分かれ、さらには資料の扱い方によっては、とんでもない歴史が唱えられることがある。只時節の試練に耐えられるには、なによりも資料の読み込みと、その判断に関わる補完資料の存在に掛かっている。

 「フルベッキ群像写真」事件は混乱した歴史の好例といえよう。
 昭和49年(1974)肖像画家の島田隆資が日本歴史学界誌「日本歴史」に、維新史上写真が存在しないといはれる西郷隆盛のほか坂本竜馬・中岡慎太郎・高杉晋作・大久保利光・伊藤博文・勝海舟・等が一堂に会している写真があると説なえた。専門家に全く無視されたが、学会誌に載ったということで、次々に珍奇性を競って色々なビジネスが生まれ、フルベッキそのものも怪しげな正体不明の人物とされるまでになった。




 そもそもこの「群像写真」、明治28年(1895)博文館の雑誌「太陽」7月号に初めて登場したが、誰が写っているかいるかに言及することなく、ただ佐賀の学生たちと説明したのみである。それから80年、島田がとりあげるまでひたすら眠り続けたが、これを機にして地元佐賀で動きがあったと思はれる。
 平成25年(2013)この写真の補完資料が出てきた。佐賀藩士で致遠館教師から明治政府に出仕した、中島永元の関連資料のなかに、同時期に撮られたガラス原版が見つかり、これに佐賀藩士数名が写り、之が「群像写真」と同じ上野彦馬の手になるもので、多くの人が比定され、勝海舟とされたのが医師の相良知安、中岡慎太郎が後の貴族院議員中島永元、西郷伊藤とされた人物は不明だが、岩倉具視の息子次男具定・三男具経などと判明するにつれ、島田の「志士群像」はもろくも潰え去り、フルベッキそのものが見直されるようになった。

 ここで改めてフルベッキの略歴を、平凡社刊「百科辞典」(1985初版)で見てみよう。
 フルベッキ Verbec (1830~98)
 「アメリカのオランダ改革派教会宣教師。英語読みではバーベック、オランダ生まれ、移住先のアメリカでオーバン神学校に学ぶが、病に倒れたのを契機に献身を決意し、新婚早々の1859年(安政6年)来日して、長崎で日本語を習得、禁制下密かに布教して、村田若狭守に最初の洗礼を授けた。また長崎の洋学所その後身の済美舘、さらに佐賀藩の致遠館で英語・フランス語・オランダ語・ドイツ語の語学・政治・科学・兵事などを教え、門下から大隈重信、伊藤博信、横井小楠らの人材を輩出した。
 69年(明治2年)招かれて上京、新政府の顧問として重んじられ、開成学校(のちの校)教頭を務めた。また欧米への使節団派遣を建言し、教育、法律、行政などの諸制度に関して献策し、日本の近代化に大いに貢献した。
 のちに伝道に専念し、東京一致新学校の講師となり、86年ヘボンらと明治学院を設立してその教授を務めた。旧約聖書の邦訳にも協力。東京で没した」とある。


(写真)   フルベッキ夫妻

 この文面だけでもトテツもない貢献と言える、「偶像写真」に関わる人物比定騒動(1974)の9年後の記述である。そうして、比定確立(2013)の28年前の確かな評定である。世の中は一片の偽報によって揺れ動く頼りない存在なのか。
 辞典のなかでキーマンと言える大隈重信(1838~1922)の評伝からフルベッキを探ってみよう。同じ辞典には「長崎に遊学してアメリカ人フルベッキについて英語を学び、世界的視野を広げた」とある。重信は年少の頃から佐賀藩の中で注目される存在で、藩の公用で長崎に出かけ、そこでフルベッキと出会い、学ぶなら英語を、そして藩の多数の若者にと、藩の老公関爽に掛け合い、重臣たちも重信に上方で騒動を起こされるより、長崎に縛り付けようと賛成して、三十数名のため慶応元年(1865)長崎にフルベッキを師とする英語塾「致遠館」を建てた、維新の3年前である。
 さらに、辞典のなかの門下生に横井小楠(1825~83)があげらっれているが、洋楽所の始まる1863年小楠は熊本藩による士籍剥奪の処分を受け蟄居状態であり、門下生とは少々不都合である。
 フルベッキは1859年11月日本着、その後2年の万延元年まで、禁教中公の布教が困難のなかに、年頃16~7の二人の士族が、英語の教えを乞いに来たのをきっかけにして、英語塾に活路を見出した。文久3年(1863)長崎奉行管轄の洋学所(後に「済美館」となる)の教授に招かれた。致遠館に先立つこと2年前である、重信との出会いはこの頃であろう、そしてキリスト教史、憲法等を伝授したのであろう。一方致遠館とは特定できないが、伊藤博文、井上馨、後藤象次郎、小松帯刀等もフルベッキの下で学んだと言はれる。
 後にタカジャスターゼで知られる高峰譲吉も12歳の頃、重信の薫陶を受けたといはれ、重信は致遠館の助教も兼ねていたのであろう。 
 重信は維新での表舞台での活躍は無いが、既に勤皇方の財政を取り仕切っており、彰義隊退治に際して大村益次郎の要請に、資金25万両・佐賀藩兵士1000人に加えてアームストロング砲2門と応えている。


(写真)  新政府出仕の若き大隈重信

   
 明治政府設立間もない慶応4年4月5日大阪東本願寺別院で、浦上事件(キリスト教徒の大迫害)に関する、英国公使ハリー・パークスとの談判に於いて、外国官副知事の重信は「博愛と言うキリスト教にも血濡られた歴史が有るでは無いか」さらに「内政干渉である」と喝破した、これにはフルベッキによる教育ガ役だったのである。重信は若いのに頼もしいと、大久保や木戸の信任を得た反面、三条実美等はパークスの怒りを買ったのではないかと心配したが、パークス自身は理屈の通った主張に応えて、むしろ所信を主張する態度に深く感銘して、後々までの信頼関係が築かれた。因みに明治への元号改正は同年9月であり、この信頼関係が外債処理に大いに役立つことになる。



(写真) イギリス公使パークス

 明治2年、フルベッキは上京政府顧問となったが、済美舘・致遠舘は5年程の出来事であるが、講義内容の多彩さに加えてその授業方法は、当時としては画期的なものであで、生徒が円陣を作り教師を囲んで自由に質問し、一団となって議論を闘わす方式で、今のディベートでありしかも英語で行われた。歴史を学ぶだけでなくこの討論方式が、パークスとの交渉に大いに役立ったのであろう。


 明治近代日本の瞭明期に医師としてのシーボルトに加えて、お雇い外国人、ローマ字のヘボン・理科のグリフィス等それぞれの専門分野で貢献したが、フルベッキは教育・法律・憲法更には工学と広範囲にわたって業績を残した。更に維新前1861年頃から明治5年(1872)にかけて、日本からアメリカに留学した約500名の半数以上が、フルベッキによりアメリカ東海岸ニュージャージー州立のラトガース大学に斡旋され、その第一陣は慶応2年(1866)で、この中に横井小楠の甥でフルベッキのもとで英語を学んだ横井佐平太・大平の兄弟が含まれていた、師事とまでは行かないが小楠もかなりの知遇があったと思われる。
 更に、ラトガースに入学した一員に、勝海舟の息子小鹿がいる、慶応3年とあるから二期生である。彼は後にアナポリスの海軍兵学校に転じている、海舟の海えの思いを継いだと言える。
 フルベッキの上京は大隈の推薦によるもので、そこで大学南校の教頭となり、新政府の外交・教育・法律等の顧問を兼務し、アメリカ等列強との条約改正の進め方の要旨を大隈に提出、これに応じた大隈、列国一堂に会しての交渉の非を悟り、列強中わが国に最も親近感を抱いているアメリカとの単独交渉の利をあげて、自ら交渉役として渡米することを建議し、三条実美の許可を得ていたが、新政府の一部特に薩長を中心にして、反対の機運が起こり大隈の渡米は実現しなかった。
 明治4年岩倉使節団(1871年6月~73年00月)が派遣されることになった。これは新政府が外交関係を結んだ諸国に、明治天皇の親書を携えての表敬訪問と、近代化の実績視察を兼ねてのことであるが、これもフルベッキの強い献策によるものであり、又留守を任せるにフルベッキの愛弟子大隅重信あってのことである。維新の大業を遂げた志士の面々も、兵火の混乱はものともしなかったが、近代化というと勝手違いで、憲法・藩札処理・新貨幣等殆ど重信まかせであった。更に、「群像写真」に岩倉具視の二男具定・三男具経が居る、フルベッキと具視の間に並々ならない関係が有ったと思われ、先の献策の成立に有効に働いたことであろう。


 明治5年の条約改正にはその1年前に、それを申し入れることになっており、改正を有利に進めるには、わが国がいかに近代化したかの実績が必要であり、その最たる物が廃藩置県に伴う中央集権と財政の確立である、渋る藩主たちを貴族として東京に集め、各種藩札全てを新貨幣「円」で償却、通貨の統一を成し遂げた。

 明治5年、その他の施策については以下に一覧する。
   2月28日 兵部省を廃して陸軍・海軍二省を置く
   3月14日 神祈省を廃して教部省を置く
   8月 3日 学制を頒布(義務教育制)
   9月12日 新橋-横浜間の鉄道開業式
  10月 2日 人身売買禁止
  11月 9日 太陽暦採用を布告(明治5年12月3日を明治6年1月1日とする)
  11月15日 国立銀行条例公布(第一銀行設立)
  11月28日 徴兵令公布
 
 お雇い外国人の一人理化学教師グリフィスによる、評伝「日本のフルベッキ」の中で、「フルベッキが居なければ日本の近代化はあり得ない」とまで断言して、正に留守中の事を言い当てている。このグリフィスが日本に渡ろうとした影に、フルベッキの弟子福井藩士日下部太郎が絡んでいる。彼は小楠の息子達とともにラトガース大に学び、猛勉強のあまり卒業直前に病死したが、「数学の天才」と称され卒業とみなされた。この存在にグリフィスは触発され、日本に渡ろうとしたといはれる。因果は廻ると言はれるが、好結果は更なる慶事を生み、近代化を推し進めたといえる。さらに尾形裕康によれば「大隈の影にフルベッキあり、フルベッキの影に大隈あり」である。


 昭和47年(1972)「群像写真」から始まった騒動、平成25年(2014)までの凡そ40年、数点のガラス原版が埋もれていた諸々の歴史上の事柄を掘り起こしたが、歴史は事実の断片により大筋が決まり、更なる資料の添加が花として添えられものであるが、学会等表の研究の影には、地元史に思いを込める名も無い好事家の活躍が有る筈である。


 「福井新報」明治29年(1896)2月号にこんな記事がある。フルベッキが送り出した薩摩藩の青年4名の一人(後の大山巌)が出発にあたってフルベッキに助言を求めたが、フルベッキは「とにかく、どんな面白い事や、可笑しい事や、慰む事があっても、日本魂を失ってはいけません」と諭したと言う。フルベッキは日本人に西洋的な価値観を押し付けず、むしろ日本的な道徳観を尊重したと言う、まことに心豊かな人である。
 これ程の業績の影には未だ埋もれたままの、多くの物語があるであろう。実のところ、小生数年前の「群像写真」までフルベッキの存在を全く知らなかった、冒頭の辞典による略歴1985年に確立し30年前のことであり、お恥ずかしいことこの上ないが、シーボルトに娘イネがいるように、例の写真に次女エマが写っており、二つの塾には春秋に豊んだ数百人の若者が群れ集(つど)っていて、時あたかも維新である、歴史に花を添える物語があってもおかしくない、小難しい歴史書には不可能なことで、文学の力に頼るしかない。若しも「坂の上の雲」の司馬遼太郎の目にとまっていたらと、妄想の雲が湧き上がるが所詮かなわぬ夢、いずれかの文筆家の目にと思う。


 小生がこの項に思い立ったのは、新潮45(2016年9月号)井上篤夫投稿の「フルベッキ先生」正伝により、氏は岐阜県に生まれ佐賀との地縁はなさそうで、早稲田在学中に執筆活動に入ったとあり、主な著訳書に「追憶のマリリン・モンロー」「志高く孫正義正伝」などがあり、少々筋違いかもしれないが、ここ(フルベッキ)に今一つの「ものがたり」を添えてと願うや切である。
 


    2017-11-19

 

 亡き大幡さん


  友人であり盟友であった大幡高通さんが93歳で一昨日の4月3日にお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。

     2022年4月5日

 




 

  熊山遺跡

 

 熊山遺跡の周辺地図

 

 熊山遺跡には山陽本線の熊山駅で下車して、タクシーにて訪れた。 車の中から途中の山道を眺めると、老体にはその道を登るのは無理だと感じられ乗ってきたのは正解であったと思われる。 この遺跡を訪ねるには徒歩なら1日を用意しなければならないであろう。

 

  熊山遺跡

 

 上写真のようなマヤ・インカの遺跡を思い起こさせるピラミッド形式である。 付近に30余もこれらがあるというが見ていない。

奈良時代の仏教遺跡であろうと云われているが、まだ謎である。 方形の竪穴の中には、古墳によく見られる円筒埴輪のような陶製筒形容器(とうせいつつがたようき)と奈良三彩小壺(ならさんさいこつぼ)が納められていた。陶製筒形容器は奈良県天理参考館に収蔵されており、奈良三彩小壺は現在失われています。

 

 陶製筒形容器  天理大学保管

 



   楯築遺跡 ・たてつきいせき

 

 楯築遺跡の周辺地図

 

 JR山陽線の庭瀬駅で下車、タクシーにて楯築遺跡にむかう。途中に王墓山古墳をチラ見してたどり着いた。 帰りはタクシーを呼び吉備津神社まで行き、徒歩てJR吉備津駅から帰還した。


 



 2世紀頃の卑弥呼の時代の墳丘墓です。円丘部とその両側に長方形の突出部をもつ特異な形をししており、ストーンヘンジのように巨石が立っています。このストーンサークルは、伝説の上では、温羅(鬼)の射た矢を防ぐ「楯」を「築」いたものと伝えられていますが、墳丘を築いた際に、何らかの祭祀を行う場として作られた説が有力なようです。

 

 復元想定図

  上図のように円丘部の上下に長丘部があるが、宅地開発と給水塔の工事で失われている。 現在は給水塔の撤去工事が行われている。

 

 当時には高価な水銀朱が発掘されたところから、相当高貴な方の墳墓だと思われる。 卑弥呼の時代の当地・吉備国は大いに発展していたことがうかがえる。

 すぐ横に宝物館があり、窓から暗いながらも亀石を覗き込むことがでる。




 発掘風景  赤い水銀朱

 

     https://www.youtube.com/watch?v=j-gSSr5JdiQ  10分

 

 徳島で見た日本最古の古墳と云われる萩原2号墳の形状とよく似ている。

 

 萩原2号墳


    2024-11-14


 

     吉備津神社 と 王墓山古墳

 

  吉備津神社 周辺図


  岡山よりJR吉備線にて吉備津駅下車、徒歩10分で吉備津神社へ行くことが出来る。 そこからタクシ-にて盾築遺跡と王墓山古墳に立ち寄れる。 半知識のせいか近くに吉備津彦神社があるのを知らずに行くことができなかった。 従いJR備前一宮で下車してここを加えて訪問するのが王道であろう。




        吉備津神社

 

  境内図

 足利義満造営とされる本殿は全国唯一の比翼入母屋造(吉備津造)で、拝殿とともに国宝に指定。また社殿3棟が国の重要文化財に指定されるほか、特殊神事の鳴釜神事が有名である。


 

 本殿   比翼入母屋造

 

 

 

     王墓山古墳

 

  この古墳は、明治末年に破壊されて、その形が著しく変形されており、その大きさや形については明らかではありません、方墳か円墳であったという。出土遺物には,四仏四獣鏡をはじめ金銅装馬具や鉄製武具,装身具類や須恵器など,大王墓にふさわしい多種多量の副葬品が知られており,これらは現在東京国立博物館に収蔵されている。


  石室は横穴式か?

 

        2024-12-14





     八幡塚古墳、 二子山古墳、   群馬高崎

 

 高崎 周辺図

 高崎駅で下車、コミュニテイバスの時間が2時間待ちであったのでタクシーを使う。[かみつけの里博物館]を降りると、すぐ八幡塚古墳と二小山古墳である。帰りは15分歩いて井出西バス亭より乗車して高崎駅まで行った。 なお、このバス停より東へ5分歩くと新幹線高架下に「三ツ寺1」遺跡がある。 他に前橋からここへのバス便もある。

 

  付近 案内図

 

 上毛野(かみつけの)博物館の付近に「二子山古墳」と「八幡塚古墳」がある。

 

  二子山古墳 

 

 中島、 二子山古墳から

 どちらの古墳にも堀の中に4か所の円形の場所・中島がある、古墳被葬者に対しての葬送儀礼がここで行われたと云われている。

 

   八幡塚古墳


  八幡塚古墳

 

 ここは築造当時の埴輪を周囲が取り囲む姿に復元されている。 雑木林がうっそうと繁ったイメージの今見る古墳とは違う。

 

  玄室、  石棺は円墳部から階段で下へ降りると展示されている

 

 

  八幡塚古墳にある埴輪、 ユダヤ人埴輪

 三角帽子のミズラをつけた武人埴輪が見受けられ、博物館の説明は朝鮮渡来人の影響が述べられているが、この埴輪からはユダヤ人がここに影響したとしか思えない。


     三ツ寺遺跡1

 

  三ツ寺遺跡1の模型、  桝形虎口を思わされる三重の堅固な門

 5世紀末から6世紀にかけてこの地の王族の館。 新幹線工事により発見発掘された。 現在は何もなく下の看板のみで偲ぶことはできない。

 

 新幹線高架下にある案内板


    2024-12-17





    中島・小浜地区   塩入荒野の開発

 

 赤字は忽那一族の松山の領地


 

  忽那島・中島 周辺図

 

 ここで「忽那水軍史」を採り上げた。 再び中島を訪れて塩入荒野の開発地である中島の小浜地区を歩く。

現在の海岸線は戦後にでも新しく埋め立てたものであろう。 忽那氏は南北朝時代が最盛期で鎌倉、大宰府、鹿児島まで攻め入ったという。 海賊の利益は船荷の四割にも及ぶと云うから、へたに土地を耕しているよりもコスパの良い海賊業といえよう。 耕そうにも島ではそれに適した土地が無いのも事実であろう。 従い中世から稼いだお金で塩入荒野を干拓してきた一族である。

 下調べも不十分な素人の歴史好きヨットマンがそれを探ろうと中島小浜地区をうろついてみた。 黒岩城の近くに忽那家の表札のお屋敷があったので有力な親族ではなかろうか。

 

 

 忽那家、 裏手に黒岩城

 

 下図で現在ある公園寄りの海岸通りより僧都碑を経て山際の輿理家神社へ歩いていくと、確かになだらかな登りの道になる。 下図の忽那八幡宮-黒岩城ー與理家神社の山際ライン近くまで昔は海水が押し寄せていたであろう。水軍城では城下海岸に舟を留置していた。

 旧海岸線の埋め立てに使用した石垣と思われる場所を見つけた。 これに沿った細道が想定旧海岸線であろう。 松山市の排水ポンプ施設もあった。 忽那氏が干拓した小浜地域はこのラインより陸側になると個人的に想定した次第である。

 

 

  中島 小浜地区



  僧都碑・そうずひ

 

享保10年(1725年)の建立と伝えられる。 福岡県筑紫郡の山寺の僧・眞證は、京都東本願寺の学僧となり、苦節20年、大僧都の位を受けたが、故郷へ錦を飾る帰途、斎灘で時化に遭い、大僧都の証(七条と緋法衣)を失った。小浜村の小者がこれを拾得し、いくら懇願しても返還せず、眞證は享保6年(1721年)旧7月16日池尻の西端稲ケ崎で投身自殺をした。
 以来、小浜村の小者には不幸が続き、拾得物を焼却したところ煙が僧都の形になって天に昇った。小者の家は断絶し、小浜村に火災が続くので、村人は享保10年(1725年)、村の中央へ碑を建て、毎年、法要と霊を弔うための仮装踊りを始めた。以後、村の火災が止み、平穏な里となったという。

 

與理家神社 よりいえ

 素盞鳴命(すさのをのみこと)を祭神とする。

 


  松山市小浜排水ポンプ施設、 帰ってから位置特定出来ず




   旧海岸線の干拓堤石垣と思われる所  左側が海岸線となる

 

     2024-12-27




    

     義経はチンギス・ハーンだった   田中英道

 

       文芸社刊

  かって読んだことがある司馬さんの本の義経には、このジンギスカン説は述べられて無い。 国費留学生として欧州に行き、老生あこがれのフィレンツエやヴェネツイアで美術を研鑚された作者の田中英道さんが今回の説を本にされた。

 この説はあのシーボルトが著書「日本」にて「義経・チンギス・ハーン説」を紹介しているという。 シ-ボルトが中国で見た碑文には「兄の怒りを買い満州・モンゴルに逃れてチンギス・ハーンが国を成した」と書かれていたと云う。 こういう決定的な物的証拠が見つかれば論争に終止符を打つのであるが..... 見つかってはいない。

 田中さんがあげる3点

1. 「義経とチンギス・ハーンの似顔絵が美術研究家の彼が見ても同一人物である」

2. 「テムジンという名は義経が自信を天神と名乗ったことから来ている」

   菅原道真の運命に重ね合わせて義経が名乗った。

3. チンギス・ハーンの名前の由来は「吉野に成りて 水干を思う」

   静御前の義経への歌 「しずやしず しずのおだまき くりかえし 昔を今に なすよしもがな」

  静御前は男性の平安装束の水干で舞う白拍子の名手である。その義経の返歌は「吉野に成りて 水干を思う」 「私は吉野に逃れたが、離れた静のことを思う」である。成吉思汗はまさに「なすよしもがな」と読める。

 

 

 平泉・30歳の義経と60歳のチンギス・ハーン

  

  https://www.youtube.com/watch?v=wuvuxlC2TzA  76分

 

 

 義経の逃走経路

 

  北海道には義経蝦夷渡伝説があるという

 アイヌ風俗絵馬の記述によると、奉納されたのは安永4年(1775)。笹りんどうの武具紋を着けた義経とアイヌ

 

 

 大陸での移動ルート



       2024-12-28





      はにわ展

 国宝 埴輪 挂甲の武人 

 12月8日 上野にある国立博物館で催された「はにわ展」へ行って来た。 最終日の日曜のせいか一時間待ちの大盛況。展示物を人の頭越しに望んできた次第です。 まあ、規模も事前に想像していた2-3倍のものとは違い、全国の「はにわ」が勢ぞろいする壮大なものと勝手な思い込みがはずれたということでした。  最近に柴山はにわ博物館に行って来たとはずいぶん違ったものになりました。

 「動物はにわ」の展示の前では「かわいい」という声が多く聞かれました。いつも耳にする表現ですが「はにわ」に向けられるとは意外でした。 個人的には彩色復元「はにわ」や「舟形はにわ」が気に入りました。 満員盛況で満足に見られなかったのは残念です。


  https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2660

 

  舟形はにわ



  彩色はにわ

 

 一階には常設展コ-ナーがあり。そこは混雑していなくて、ゆっくりと見られる。 縄文時代の遮光土偶の本物を初めて見ることができた。すばらしい。


  遮光土偶

 

         2024-12-13




  ミドハド憲法  アジア最初の憲法制定    更新

 

 オスマン帝国憲法

 

 アジアで初の憲法制定はと問われると、大日本帝国憲法・1889年制定とかオスマン帝国のミドハド憲法と言われています。 トルコはEUに入れるの入れないとの議論されている。EUに入ればアジアとは云えないでしょう。 最近の動きは入れてくれないのならトルコ独自の動きをしますよ........となっていますね。

 いずれにしろオスマントルコでは1876年にミドバト憲法を制定した。 制定当初は「基本法(カヌーヌ=エサーシー)」と言われ、のちにミドハド憲法と呼ばれるようになった。その主な内容は

  全119条からなり、以下のような内容を含んでいた。

スルタン=カリフ制の明文化(第4条)
ムスリム(イスラム教徒)と非ムスリムの平等(第8条)
オスマン語(トルコ語)が公用語であること(第18条)
上下両院からなる議会の開設(第42条)
西洋式の法律に基づく裁判所とシャリーアに基づく裁判所の並立(第87条)
皇帝は戒厳令を発令し、危険人物を国外追放に処すことができる権利を持つこと(第113条)

 1877年議会が招集された。しかし露土戦争の敗北により憲法は1877年に停止された。再び立憲君主制から専制政治になり1908年まで続いた。これは1906年に日露戦争に日本が勝利した。その影響を受けた青年将校の反乱により、憲法の復活をみた。

  イスラム国のような鬼っ子がでてくるイスラムについては、まだ合点がいきません。 トルコの近代化が他のイスラムには影響を及ぼさなかったということでしょう。

 明治の日本のようにオスマントルコは早く近代国家と認められてロシアなどの西欧列強と対抗しようとしていた同じ悩みの国であった。 それを見透かされてすぐにロシアが南下してきて露土戦争が起きる。すぐにこの憲法を停止して専制君主国に戻ってしまった。

 

  トルコまとめ


      2016-6-26、 2025-1-15更新


 


  

  ロシアのユダヤ自治州
  

  ロシアのユダヤ自治州

 

 昨日・15日にイスラエルはパレステイナでの停戦合意を発表しました。 これで新しい平和の動きが進展するとよいですね。 20世紀に入ってユダヤ人には大きな問題が起きてきました。 100年経っても解決になるのは難しい。

 ロシアにと云うかソ連からあったのであろうがユダヤ自治州がありました。 なぜここが存在したのか、過去にナチから日本に逃れるべきユダヤ人(オトポ-ル事件)が取り残されてしまった人々なのか、第2次大戦後にイスラエル建国後にはどうなったのか、はたまた、最近のウクライナ戦争でここから徴兵されて動員されているのか、分からないことばかりです。 今はロシアへの取材は簡単に行けそうもない時期ですので、これらのことごとに関心を持ってのマスコミの取材も期待できません。 うわべのことしか分かりませんが小生はここに採り上げてみました。

 ウイキより、「ロシア連邦を構成する唯一の自治州。首都はビロビジャン。極東連邦管区に位置する。面積3万6000平方キロメートルで、2017年1月1日の人口は16万4217人。民族構成はロシア人、ウクライナ人が多く、ユダヤ人は全体の1%強に過ぎない。鉱業、林業、農業が主要産業。1928年、ヨシフ・スターリンの社会主義民族政策により、アムール川沿岸の中ソ国境地帯にユダヤ民族区が設置され、西ウクライナから西ベラルーシにまたがるルテニアと呼ばれた地域・カルパティア・ルテニア(カルパト・ウクライナ)・ガリツィア(ガリツィア・ロドメリア王国)・モルダヴィア・ベッサラビアなどの各地域にあったユダヤ人コミュニティ(シュテットル)から多数のユダヤ人が移住した。」

 ロシア革命自体ユダヤ人が大きく関与していたというお話は最近のDS・デイ-プステ-トがらみで耳にするけれども、小生にはお題目を知っているのみだ。 革命前のロシアには激しいユダヤ人弾圧のポグロムの歴史がある。 スタ-リンは最初にクリミアにユダヤ人共同体を建設したけれども失敗に終わる。それ以降にシベリアのこの地に移ったようである。 現在は人口の1%のみを占めるというから、ここも名のみで実態を反映しているわけではないようだ。

 かっての日本にも河豚計画(ふぐけいかく)があった。1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画である。1934年に鮎川義介が提唱した計画に始まるとされ、1938年の五相会議で政府の方針として定まった。実務面では、陸軍大佐安江仙弘、海軍大佐犬塚惟重(下記参照)らが主導した。ヨーロッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満洲国に招き入れ、自治区を建設する計画であったが、ユダヤ人迫害を推進するドイツのナチ党との友好を深めるにつれて形骸化し、日独伊三国軍事同盟の締結や日独ともに対外戦争を開始したことによって実現性が無くなり頓挫した。

 

 

 

    犬塚是重     上海特務機関長の3年
                  



  海軍の唯一のユダヤ研究家であり、上海特務機関長として、大戦前の3年間にわたりユダヤ工作に従事し、ユダヤ人から感謝されました。 明石元二郎は国の豊富予算で動きましたが、犬塚はこのために昇進をあきらめて現役を退き私財・退職金の1万円をユダヤのために使いました。


 ドイツ・ナチ派の軍人や総選挙で最高票で代議士に当選した四天王陸軍中将にユダヤ人排除・殺戮をするようすすめられましたが、人道・武士道に反すると断固拒否しました。 結局は、犬塚を追い落とすために、根も葉もないデマで嫌疑を受けたり、人事に陥入されて、最後は現役復帰でこの特務機関長職を辞すことになった。  敗戦後に戦犯容疑で逮捕されましたが、上海のこともあり不起訴で釈放された。

 杉原千畝のビザ発行が有名ですが、それよりも前に犬塚大佐はユダヤの神学生200人の日本通過ビザの発給をリトアニアの杉原千畝に合法的にさせました。 それを聞いてユダヤ人がますますリトアニアに殺到することになります。 杉原千畝はこの先例があり、人道上の個人的な判断からその後に起きたビザ発給です。 犬塚大佐の場合は、上海で実務的にユダヤ問題に実行対処してきたことからの判断・考えによる違いがあります。

 

  犬塚・新明きよ子著

 上書の著者・新明きよ子さんは戦後結婚して犬塚きよ子になるのですが、新聞記者をしていてユダヤ人のことに興味を持ち、海軍軍令部を訪ねて犬塚大佐に会います。その時にナチスのように排斥一本鎗ではなく、ユダヤ禍への対策を立てるとともに、彼らをまつろわせて救う道を講じるのが日本の解決策であると彼の話を聞きました。

 陸軍の安江仙弘大佐と海軍の犬塚是重大佐、この両人しか旧軍にはユダヤ専門家はいなかった。どちらも戦後のイスラエルから尊敬を受けています。 ナチと同じようにならなくて幸いでした。

 犬塚大佐は連合艦隊司令長官の山本五十六とラバウルでしんみりと語り合うことがあり、戦局を案ずる長官に、持論のアメリカ・ユダヤを動かしての和平工作案を進言したという。それは名案だ、帰京して軍令部に提案してくれと。その上申案の作成中に長官戦死の報があった。ついに日の目をみることはなかった。惜しまれます。

  戦後に彼を日和見主義者であったと非難する人もいます。ユダヤ工作の一番の目的は国益です。どこにも行くところがなくなったユダヤ人に対して、英国はパレステイナに上陸しようとした避難民に機関銃掃射さえしています。今の欧州に殺到している避難民の状況とは比べようもない状況です。米国もほとんど受け入れしていません。 上海にしか安住の地はなかったでしょう。そこでユダヤ人を3万人ほど保護しました。

 この書を読めばそのような人柄でないとわかるはずです。著者のきよ子さんは、いわばユダヤ研究の同志というような方です。奥さんが亭主のことを書いた文と勘違いなさらぬように。まぎれもない1次資料です。 おすすめいたします。

                           2015-11-19  再掲

 

     2025-1-18





   聖徳太子の時代   丁未の乱より大化改新、壬申の乱まで

 

聖徳太子・厩戸王、厩戸皇子

 

 聖徳太子の阿波での痕跡をここで取り上げています。生誕地や廟跡など残っています。 阿波・徳島に関しての天皇話は今のところ普及しているお話しではないので、さておき、聖徳太子の時代をとりあげます。その時代はまだ、歴史的には定まっていない・よく分かっていないものを書くことになるでしょう。

 また、前置きです。この日本の古代・中世・戦国の兄弟・親族の跡目争い、まして西洋の中世・封建時代のそれにも、ウンザリして小生には興味のないところです。

 

 

 「丁未の乱・ていびのらん」において蘇我氏は仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、物部氏の守屋宗家が滅ぼされた。ここで蘇我氏が実権を握って大化の改新で蘇我入鹿が殺さて滅亡するまで続きます。       

 30,31,32,33代の天皇は29代欽明天皇の異母兄弟である。 聖徳太子は31代用明天皇の子として誕生する。 そして蘇我馬子の娘と結婚して山背大兄王をもうける。29代欽明天皇の子32代崇峻天皇は蘇我馬子に殺される。次の33代は異母兄である30代敏達天皇と結婚し崩御後に推古天皇(女帝)になる。彼女は聖徳太子を皇太子とし摂政とした。推古天皇の崩御に際し、その後継者として田村皇子・舒明天皇と山背大兄王が候補に挙がり、山背大兄王が蘇我入鹿に追い詰められ自害し34代舒明天皇となる。

 

 

 38代天智天皇は34代舒明天皇の第二皇子・中大兄皇子。母は35代皇極天皇(重祚して37代斉明天皇)である。中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父の蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(36代孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行った。息子の39代弘文天皇が即位する。40代大海人皇子(のちの天武天皇)は壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。

 

 

 蘇我氏と天皇

 

   天智天皇・中大兄皇子 年表

626年 - 田村皇子(のちの舒明天皇)の第二王子・中大兄皇子として誕生、唐の建国

630年 隋からの留学生帰国
645年 - 6月、乙巳の変。蘇我宗家を滅ぼす。叔父の孝徳天皇の皇太子となる。9月、異母兄の古人大兄皇子を謀反の疑いにて処刑。12月、難波長柄豊碕宮へ遷都
646年 - 「改新の詔」
649年 - 3月、蘇我日向の密告を受け、蘇我倉山田石川麻呂を謀反の疑いにて自害に追い込む
653年 - 孝徳天皇の意に反し、群臣らを率いて板蓋宮へ遷る
654年 - 10月、孝徳天皇崩御
655年 - 1月、母の宝皇女が即位して斉明天皇になる(皇極天皇の重祚)。引き続き皇太子を務める
656年 - 岡本宮へ遷る
658年 - 11月、蘇我赤兄の密告を受け、孝徳天皇の遺児の有間皇子を謀反の罪にて処刑
659年 - 阿倍比羅夫に蝦夷国(東北地方・北海道)遠征を命じる
660年 -百済が唐と新羅に攻め滅ぼされる。百済皇子の扶余豊璋を帰国させる
661年 - 百済再興を救援するために西下するが、7月、斉明天皇が朝倉橘広庭宮にて崩御。皇太子のまま天智天皇・称制
663年 - 7月、白村江の戦いにて唐・新羅連合軍に大敗
664年 - 2月、甲子の宣
667年 - 3月、近江大津宮へ遷る
668年 - 1月、即位。2月、大海人皇子を皇太弟とする。10月、高句麗が唐と新羅に攻め滅ぼされる。この年、「近江令」制定?
669年 - 10月、中臣鎌足が亡くなる前日に内大臣に任じ、藤原の姓を与える
670年 - 2月、「庚午年籍」を造る。11月、子の大友皇子を史上初の太政大臣に任ずる
671年 - 10月、大海人皇子・天武天皇が吉野へ去る。12月3日天智天皇崩御

672年    壬申の乱

 

ここでの蘇我氏は良くわかっているのは蘇我稲目からです。武内宿禰を祖としていると云われているが葛城地方を地盤とした勢力であった。蘇我氏の字から我よみがえりと読め復活キリスト教関連を思い起こさせる。 蘇我氏に推された聖徳太子が馬屋に生まれた厩戸王と知られている. キリストも馬屋に生まれた。 蘇我氏が物部氏と争って仏教を推し広めたのに我よみがえりでは不思議です。 ここで 日本とユダヤの古代史&世界史   著・田中英道、茂木誠をとりあげていて、蘇我氏は431年以降の渡来人としています。ネストリウス派・景教につながると考えれば蘇ることになります。 同じユダヤ系の渡来人秦氏が聖徳太子の大事な補佐として秦河勝がついています。聖徳太子の死は蘇我氏から殺されたのではないかと云われています。それと伴に秦河勝が逃避するのも納得です。 いずれにしろ蘇我氏が天皇をも暗殺する絶大な権力をにぎり滅亡させられる運命であった。 

 先の大河ドラマのごとく、中臣氏が藤原氏になり蘇我氏から続いていた天皇と娘の婚姻により権力を握る時代が後まで続くことになるのは、複雑で混乱していて陰謀めいていて、老生には興味のない歴史と個人的な思いであります。



 百田尚樹の新版・日本国紀#18 《明日香〜奈良時代編》第4回 「十七条憲法がいかにスゴイか」

  https://www.youtube.com/watch?v=G9KsOjskEO4



       2025-2-8

  




      日本の近代の黄金時代

 

  東慶丸のスミルナでの難民救出

 

 残り僅かな余生を迫られる後期高齢者になった爺である自分。 40代まで船員であった。 

 ここで 東慶丸による難民救出をとりあげている。 船長にはなれなかった小生ですが、日比佐三船長は 大事な積荷を捨て船倉を空けて多くのギリシャ人やアルメニア人をオスマントルコによる虐殺から救った。 船員として考えるに、積荷を捨てる行為をすることはとうてい考えられない決断である。

  日本の船が人々を救った? 100年前の「救出劇」の東慶丸の真相は?

 この時代は坂東捕虜収容所ポーランド孤児の救済人種的差別撤廃提案など、今の日本人にはとてもできそうにないことをやり遂げたレ歴史的な黄金時代であった。 その時代を探るべく下に年表を作成する。 浅学な小生ゆえにその時代が大正時代であったのかと分かった。大正デモクラシ-とか大正ロマンといった時代になる。 この後もわずかに続いて命のビザの杉原千畝工藤俊作の英艦乗組員救助など現在まで称賛される行為は第2次大戦の初めまでありました。

 戦後80年にもなるのに、機会が無いわけではなかった。 それらに続く行動が無いのはどうしてなのだろう。 日本人は劣化してしまったのであろうか。 それとも、失念してしまったのであろうか。

 

   年表

1911   関税自主権の回復

1912   大正

1913  大正の政変

1914   第1次世界大戦始まる, 大戦好景気
1917   坂東捕虜収容所、 ソビエト政府樹立

1918   第1次大戦終戦、  シベリア出兵、 米騒動、 政党内閣・原内閣誕生

1919   国際連盟に人種的差別撤廃提案
1919-23  ポ-ランド難民孤児の救済、 ドイツがベルサイユ条約締結

1920  「女性解放運動」を展開する平塚らいてうや市川房枝、 戦後恐慌

1921  原首相暗

1922  東慶丸によるギリシャとアルメニア難民の救出

1923  関東大震災

1925  治安維持法、  普通選挙法

1926  大正改元

1927  昭和金融恐慌

1929  世界恐慌

1930  ロンドン海軍軍縮会議

1931  満州事変




      2025-2-11






    龍馬の船   晩年龍馬年表付

 坂本龍馬が亀山社中・海援隊において所有・運航した船と他藩の船でも乗船した船をとりあげます。

 



          龍馬関連年表(旧暦)

文久2年・1863
     12/21 千葉重太郎、小笠原長行らと「順動丸」で兵庫着
     12/29  勝海舟と会う
文久4年・1864
      1/8  勝海舟と「翔鶴丸」で大阪着
     2/16  勝と「翔鶴丸」で佐賀関に入港、陸路長崎にむかう 
元治元年・1864
      2/23 龍馬は近藤長次郎、望月亀弥太、千屋寅之助、高松太郎らと長崎を初めて訪れる。
      4/4 神戸海軍操練所建設のため勝海舟と共に陸路兵庫にむけ出立。
    5月某日 京都でお龍に出会う。
      6/5 池田屋事件。望月亀弥太死亡
      6/7 「黒龍丸」に大阪で乗船
      6/17 「黒龍丸」で下田入港
      6/20 「翔鶴丸」で勝と大阪着
      7/19 禁門の変 
      7/23 第1次長州征討
      8/1  お龍と内祝言
      8/5 4国艦隊下関砲撃開始
     8月某日 勝の使者として西郷と面会
      11/10 勝海舟、軍艦奉行罷免される
    12月某日 薩摩は龍馬らを「船の手先」として雇い入れる
      12/16 高杉晋作の功山寺挙兵 
慶応元年・1865 
      3/12 神戸海軍操練所廃止
    4月某日 中岡慎太郎と薩長和解を策す
      4/12 幕府、第2次征長令を発す 
      4/22 西郷、小松帯刀に同行して「胡蝶丸」薩摩へ
      4/29 「胡蝶丸」 長崎寄港
      5/1  「胡蝶丸」鹿児島着
      5/16 長州への薩摩出兵拒否を伝えに行く、薩長同盟模索
     閏5/6 下関で薩長連合の件で桂小五郎と会見
     閏5/21 中岡慎太郎下関到着、西郷は下関に来ず、桂は憤激す。
     閏5/29 中岡と西郷説得のため京都へ
     6/29  西郷と会見、薩摩名義での軍艦・銃購入を許される
    7月頃  「亀山社中」設立 
     8/26  近藤長次郎の周旋によりグラバ-から銃を購入長州へ引き渡す
     9/26  兵庫で「胡蝶丸」乗船
     9/28  伊予青島寄港
     9/29  上関上陸
     10/7  下関の白石正一郎を訪問
     10/18 グラバ-から「ユニオン号」購入、「桜島丸」に改名
     11/24 長崎に向け大阪出発、 上関寄港 (11/26)
     12/3  下関着   
     12/14 長州と桜島条約を締結
慶応2年・1866
     1/1  長府藩士三吉慎蔵と出会う
     1/10  三吉と共に下関から兵庫に向かう 
     1/14  近藤長次郎自刃
     1/21  薩長同盟締結
     1/23  寺田屋事件で負傷
     2/5  薩長同盟の朱筆で裏書
     3/5  薩摩藩船「三邦丸」にお龍と乗船して薩摩へ
     3/8  長崎に寄港して近藤長次郎の墓参をする
     3/10 鹿児島到着
     4/12 亀山社中は「ワイルウエフ号」を薩摩の援助により購入
     5/1 桜島丸にえい航されてワイルウエフ号は長崎より鹿児島に出港
     5/2 ワイルウエフ号が座礁沈没
     5/28 勝海舟が軍艦奉行に再任
     6/1 お龍と「桜島丸」に乗船
    6月某日 「ワイルウエフ号」遭難地を訪れて弔い金を地元に渡す
     6/4 「桜島丸」が長崎到着、お龍を小曾根英四郎に預ける
     6/7 第2次長州征討
     6/14 下関到着、桂より小倉口参戦を依頼される。
     6/17 「桜島丸」(乙丑丸・ユニオン号)と長州軍船4隻で小倉渡海参戦
     6/20 高杉晋作と白石正一郎宅で面会
     7/20 徳川家茂が大阪で死去
     10/3 亀山社中、薩摩より月給として一人当たり3両2分を受け取る
     10/28 プロシア商人・チェルシ-から「太極丸」を購入
     12/4  小曾根英四郎宅に滞在
     12/5 慶喜15代将軍に就く
     12/7 山口で木戸準一郎に溝淵広之丞を紹介
     12/14 溝淵広之丞と共に下関到着
慶応3年・1867
     1/4 下関で伊藤助太夫宅に滞在  
     1/9 下関出港 長崎へ 船名不明
     1/11 長崎着
     1/12 長崎で後藤象二郎と会見、脱藩許される、
     2/10 龍馬とお龍が長崎より下関の伊藤助太夫宅に行く
     3/18 龍馬が御手洗で薩長芸土4藩の予備会談
     3/21 龍馬、新谷道太郎に会い下関に向かう
     3/22 下関着、三吉愼蔵に「大日本史」借用を願い出る
     4/8 伊予大洲藩蒸気船「いろは丸」 長崎到着
     4/14 高杉晋作死去
    4月上旬 「亀山社中」を改編して土佐藩付属の「海援隊」になる
     4/19 土佐商会に対して海援隊院へ一人当たり5両の月給を要求
         「いろは丸」長崎出港
     4/23 「いろは丸」紀州藩船「明光丸」と衝突沈没
     4/25 鞆の浦で「いろは丸」談判
     4/30 御手洗で鳥取藩士・川田佐久間と面会
     5/15 長崎で紀州藩と賠償交渉開始
     5/29 紀州藩より8万3000両の賠償金で決着    
     6/9 土佐藩船「夕顔丸」に後藤象二郎やお龍と乗船、「船中八策」を作成
     6/11 兵庫入港
     6/22 「薩土盟約」締結、 龍馬と中岡陪席
     7/4  後藤象二郎が藩主に大政奉還を伝えるため土佐に向かうのを見送る
     7/6 長崎で「イカルス号」水夫殺害で海援隊に建議かかる
     8/1 薩摩船『三邦丸』(みくにまる)で大阪出港
     8/2 須崎で土佐藩船「夕顔丸」に乗り換える。
     8/12 「夕顔丸」長崎にむけ出港
     8/14  下関寄港
     8/15  長崎入港
     9/7  薩土盟約を解消
     9/10 イカルス号事件無実となる
     9/18 海援隊が芸州藩船「震天丸」長崎出港、土佐へ銃1000丁を渡す。
     9/20 下関で三吉慎蔵にお龍を預ける。
     9/22 「震天丸」で下関出港、お龍との最後になる。土佐へ向かう
     9/29  脱藩以来の初めての帰郷で最後ともなる
     10/5  土佐藩船「空蝉」で大阪に向けて土佐出港
     10/14  大政奉還が受理、討幕の密勅が発せられる
     11/1  福井で松平春嶽に会う、
     11/5  「新政府綱領八策」を草案
     11/7  御手洗で薩長芸土密約に龍馬立ち会う
     11/8  龍馬は御手洗を立つ
     11/15 近江屋で襲撃され龍馬死亡
     12/7  陸奥陽之助ら海援隊による天満屋事件起こる
     12/9  王政復古の大号令

 



 五島列島・中通島上五島町の有川にヨットで一週間ほど停泊しました。 フェリ-タ-ミナルのロビ-展示で大きな龍馬像がある。それを目にした時には、なぜ、ここに龍馬の像があるのか不思議であった。 あとで知ったのですが、亀山社中の船「ワイルウエフ号」が潮合岬(しおや)にて座礁沈没して社中の者が遭難死亡した。

 これには発見談があり司馬遼太郎「龍馬がいく」にこの遭難話が書かれており、興味を持った人が昭和43年の時代になり、探し求めて、ついに遭難者の墓を発見した。地元の人にも忘れられており、 当時の俗謡を覚えている唯一の老人にもめぐりあったという。

「そど(騒動)よ、そど、 そど、 潮谷そどや、
 五月二日の明け六つに 異国の船とは知らねども
 どことも知れぬ、島見せぬ 島もだんだん見えるして
 かねの錨をつけこんで つけども錨がきかずして
 石に当たりて水船に 流れて行くのがどこなれば
 上口さしてぞ流れ行く 江ノ浜前にぞ 流れつく
 どなたも錦の対の衣装 こりゃ何事じゃと 村中が
 浜に騒ぎて大騒ぎ 国はいづことたずぬれば
 国は薩摩の鹿児島で 積荷は何ぞとたずぬれば
 大砲(おおづつ) 小砲(こづつ)つみまぜて
 かなきんなどを さしにして
 さぞやお世話じゃ 浦田さん」

  浦田さんは浦田運次郎は塩飽列島の佐柳島出身で咸臨丸渡米にも参加している船頭頭であった。

  山下禎三郎 ワイルウエフ号遭難顛末記
   http://wkmseton.d.dooo.jp/seoto/sot15.html


 有川より世界遺産になる頭が島教会に行きました。定期バスで訪れたのですが、龍馬像をバスから写真を撮りました。 しかしその地の江の浜には降りることはなかった。今考えれば惜しいことをしたものです、なにせ1日3便しかないバス便であったので。初めはその地を観光便乗商法宣伝と思っていたのは浅慮でした。

 潮合岬に立つ合掌した龍馬像
 

 


     龍馬の諸船

 

1. 「ワイル・エフ号」 スク-ナ-159t プロシア建造 グラバ-から購入

 亀山社中の木造練習船であったワイル・ウエフ号が、長州から米を積んだ桜島丸(ユニオン号・近藤長次郎のあっせんによりグラバ-から購入)にえい航されて鹿児島に向かう途中、上五島中通島潮合埼沖で遭難した。社中の池内蔵田・黒木小太郎ら12人は死亡した。

 

2. 「順動丸」 77m 405t 360馬力 外輪船  英国建造


画像なし
3. 「翔鶴丸」 350t  外輪船  アメリカ建造 幕府船

 

4. 「胡蝶丸」 薩摩から土佐藩船  外輪船  150馬力  旧フ-キン


画像なし
5. 「黒龍丸」  越前藩が購入して幕府船に
 

6. 「ユニオン号」 45m 300t、長州藩船  英国ロッテル-ヒ建造 1865年薩摩名義で長州購入 、薩摩名義「桜島丸」 長州名「乙丑丸」(いっちゅうまる)
6月17日 (旧暦) の小倉藩への渡海作戦に、坂本龍馬が指揮官、菅野覚兵衛が艦長、石田英吉が砲手長となって実戦に加わった、大島口の戦いにも参加。


 

7. 「夕顔丸」 65m 蒸気船 659t  土佐藩船 船中八策を起草
1963年に英国で建造、Shooeyleen号 英国商人オルチから購入
 

 夕顔丸

 

 長崎にある 夕顔丸碑

 

8. 「いろは丸」 160t 大洲藩 1866年英国バ-ミンガム建造アビソ号
 

9. 「大極丸」  商人鳴海屋与三郎が買主、小曽根英四郎が保証人となって、プロセイン商人チョルチーより購入した洋帆船 遭難したワイルウエフ号と同規模の船。


 

10. 「震天丸」 芸州藩船  薩摩より10万両借りて英国より購入、 薩芸同盟により長州と芸州の兵を御手洗から大阪に送る


画像なし
11.「空蝉」 土佐藩船 146t 150馬力 蒸気船 建造場所不明 国産かも

 

12.「三邦方丸」(みくにまる)  英国リクエブ-ルで製造、53m 410t 8万ドル購入、 西郷の遠島と帰還に利用された


       2018-8-21

  
  船中発策ブログ まとめ  坂本龍馬  http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank038.html


        2025-3-7  再掲






     引田馬宿にある山王宮   

 

 引田のまち図


 引田には3度ほどヨットで入港したことが有る。引田城、井筒屋敷、引田古い街並み、翼賛温泉等を訪ねた。

 蘇我稲目の娘・小姉君と29代欽明天皇との娘・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのみこ)は31代用明天皇との間に諸司巡行中、厩の戸口で厩戸王(聖徳太子)を難なく出産したという。 引田に馬宿川の地名がありこの付近で馬宿王を生んだのではないかと伝わる。皇太子として聖徳太子がなるがそのお膳立てとしてネストリウス派・景教のバックボ-ンを持つユダヤ系統の渡来豪族蘇我氏がもくろんだものであろう。キリスト誕生の云われと重なる地名の命名と姓名が残る。 聖徳太子は上宮太子とも呼ばれていました。上宮は、聖徳太子の居所を表しています。鮎喰川を挟んで対岸の気延庄に、聖徳太子の上宮があったという。 阿波気延庄に居所の上宮があり、廟所も眉山の麓にある。

 

  

 山王宮・住吉神社


 馬宿川の河口に小さな船溜まりがあり、そこに山王宮・住吉神社がある。 ここであばれだんじりの奇祭があるという。 藤原鎌足の次男の不比等に関する由緒碑を先の訪問の時に見つけ、小生は聖徳太子との関連の神社かと勘違いしたようだ。 不比等が86番志度寺を増築した際に立ち寄ったのであろうか「海女の玉とり伝説」に関連して家来の佐藤氏がここ引田に残りここを建立したという。馬宿と山王宮は関係がなかった。

 

  由緒碑



       2025-2-26


 

 

  

      天保の改革

 

 天保の改革1831-43   水野忠邦

 

 オ-ルドメデイアと云う言葉を耳にするようになったが、半世紀以上前に習った学校教育の歴史も最新の研究が反映されてきたせいでしょうか、同じようにオ-ルドヒストリ-に変わってきたのであろう。

 さて、江戸の三大改革と云えば、享保の改革・寛政の改革・天保の改革です。 ウイキにより天保の改革は

 

   改革の背景..........令和の現在の背景


①階層分化に歯止めがかからず地主と小作人の関係が広まっていった..........富裕層と庶民の階層分化

②貧農の都市流入が進み江戸の貧民層が6割にも及んだ..........都市流入化

③モリソン号事件、アヘン戦争が起こり外国の脅威が現実のものとなりつつあった...ウ露戦争、北朝鮮の核武装、中国の脅威

④天保の飢饉、流通の仕組みの変化などにより物価があがった..........米価格の高騰

  背景を比べてみると同じようなものであることが分かる。今は時代の変わる転換点に立っているということであろう。 昨今には財務省前のデモがにぎわっている、全国にも拡がる勢いである。

 江戸時代の改革では質素倹約を盛んに言っている。長く幕府は続いたけれど根本的な解決はそれではできなかった。 財務省の緊縮財政政策は30年の停滞を招いた最大の原因だと云える。 江戸時代は改革が行われたけれども、封建制を変えなければ解決できなかったように、今もその緊縮政策を変えない限り縮小ダウン傾向から逃れられない。 このままでは取り返しのつかない点まで行ってしまうか。

 固陋な幕閣・財務省を取り換えるか、それとも否応なしに大きな体制の返還である江戸から明治への動きが起きるのかは判断がつかない。 トランプ革命が進行中である、どうなることでしょう。


        2025-3-18

 

 

  ジョン・ハ-トレイ事件

 

 アヘン戦争

 

 1877年(明治10年)12月に発覚したイギリス人商人ジョン・ハートレー (John Hartley)による日本でのアヘン密輸事件である。英国領事裁判法廷は彼に無罪の判決を言い渡し、関連法令にも違反していないとの判断を示した。 それにより、明治政府は列強の治外法権に対して条約改正を求めるため、鹿鳴館外交や欧化政策が進められる端緒ともなった。 ハートレーは、翌1878年1月8日に再び吸煙アヘン12斤を密輸しようとしている。 隙あれば持ち込もうとする英国悪徳商人である。

 なぜ日本にはアヘンが入らなかったのかは「なぞ」である。 アヘン戦争・1839年の後に1862年幕府視察団の随行員として高杉晋作や五代友厚は上海へ渡航します。彼らはその戦後の上海をつぶさに見て後に生かすことになった。 また、佐久間象山もこれを深く研究することになった。 日米通商航海条約でハリスの提言で「アヘンの輸入禁止」条項を条約に持ち込み、後の諸外国の条約にもこの条項が入っことにより、日本にアヘンが流行ることがなかった。 下記に良くまとめてある動画があります。

    なぜ日本ではアヘンが流行らなかったのか?

  https://www.youtube.com/watch?v=CfQYa-llR50&t=99s

 

 領事裁判でハ-トレイ事件のように無罪になっても、上告して本国で裁判を受けねばならずに、日本の原告には厳しい事態が続いた。 のちに検疫の問題で1879年ヘスペリア号事件が起こる。 法権の回復がなければ国家の威信も保たれず、これらの事件は国民の安全や生命も守ることのできないことを国民が知ることになる契機となり、列強の治外法権に対して明治政府は条約改正を求める強い欲求となった。

 

         2025-4-3

 

 

 

    末次平蔵・政直   1546頃―1630,   浜田謹吾、浜田弥衛兵

 

 

 浜田謹吾の像

 

  大村城・玖島城を訪ねた時に少年の像があった。浜田謹吾の像という。大村藩は幕末の勤皇藩であり。ここで渡辺昇その家を訪ねて大村37志士の墓などをとりあげている。その少年は戊辰の役で鼓手として秋田で戦死した。 この場内には浜田弥衛兵の碑もある。弥平衛兵は長崎代官の末次平像配下の朱印船の船長であり、ノイツ事件によりオランダの台湾支配に抵抗した。

 タイオワン事件 (タイオワンじけん)、別名 ノイツ事件 とは、 1628年 (寛永 5年)に 長崎代官 の 末次平蔵 と オランダ領台湾 行政長官 ピーテル・ノイツ との間で起きた紛争。 台湾では 浜田弥兵衛 事件 (濱田彌兵衛事件)と呼ばれる。それで末次平蔵家が取り潰されて浜田の家は大村藩に仕えて幕末まで続き謹吾を残す。

 末次平蔵は平戸出身の博多の豪商・末次興善の次男として生まれる。元亀2年(1571年)に長崎に移住。朱印船貿易で安南・シャムなどと貿易を行う。元和4年(1618年)に長崎代官の村山等安を訴え、翌元和5年(1619年)に等安が処刑されると、代わって長崎代官となる。キリシタンであったが禁教で仏教に転向し、キリシタン弾圧に手を貸す。政直はノイツ事件により1630年に幽閉・惨殺された。 平蔵の名は2代代官末次茂貞・3代代官末次茂房・4代代官末次茂朝も名乗っている。1676年茂朝が抜け荷の罪により末次家は断絶。

 江戸幕府は将軍の名による朱印状を発給することで朱印船に保護を与えていたため、多くの朱印船が東アジアの海上を活発に往来していた。その一方で同海域において、従来のスペインやポルトガルが保持してきた覇権を奪取しようと、新興のイギリス・オランダといった国々が艦船を投入し、互いにしのぎを削っていた。そこでオランダの1624年台湾占領が起きる。

 個人的には朱印船貿易が続き幕府の方針とうまくいき、そのまま発展して近代を迎えたいと望むがそうはならなかった。東南アジアの日本人町に住む日本人が戦い、中南米の植民地のようなジェノサイトのような悲惨な植民を防いだと云えよう。

 家康が望んだ交易方針が家光により鎖国に至った歴史を見てみよう。

 

 「鎖国」完成までの歴史   ウイキより転載加筆
「鎖国」体制は、第2代将軍秀忠の治世に始まり、第3代将軍家光の治世に完成した。

1612年(慶長17年)幕領に禁教令
1616年(元和2年)明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定、家康による関東の西洋人居住許可を否定。家康の死
1617年(元和3年)堺において外国人の鉄砲等の武器購入が禁止。
1618年(元和4年)イギリス・オランダの輸入鉛購入先は幕府のみとなる。
1620年(元和6年)平山常陳事件。イギリス・オランダが協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる。
1621年(元和7年)日本人のルソン渡航禁止。イギリス・オランダに対して武器・人員の搬出と近海の海賊行為禁止を命じる。
1623年(元和9年)イギリス、業績不振のため平戸商館を閉鎖。
1624年(寛永元年)スペインとの国交を断絶、来航を禁止。オランダの台湾占領
1628年(寛永5年)タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える。
1631年(寛永8年)奉書船制度の開始。朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となった。
1633年(寛永10年)「第1次鎖国令」。奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。
1634年(寛永11年)「第2次鎖国令」。第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。
1635年(寛永12年)「第3次鎖国令」。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航および日本人の帰国を禁じた[13]。
1636年(寛永13年)「第4次鎖国令」。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。
1637年(寛永14年)- 1638年(寛永15年)島原•天草の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助した。
1639年(寛永16年)「第5次鎖国令」。ポルトガル船の入港を禁止。それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している[14]。
1640年(寛永17年)マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航。徳川幕府、使者61名を処刑。
1641年(寛永18年)オランダ商館を平戸から出島に移す。
1643年(寛永20年)ブレスケンス号事件。オランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される。
1644年(正保元年)中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続けた。
1647年(正保4年)ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。徳川幕府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船の来航が絶える。
1673年(延宝元年)リターン号事件。イギリスとの交易の再開を拒否。以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。

 

      2025-4-7

 

 

 

    フェ-トン号事件と捨て足軽

 

 Phaeton 長さ39f 乗員280名 砲数38門


 「捨て足軽」という言葉に興味を持ち調べてみた。 フェ-トン号事件という出来事が幕末開国の50年ほど前に起きた。 英国フリゲ-ト艦がオランダ船籍を偽装して長崎に入港。その事件は出島のオランダ人を人質にとり水などを強要補給して出港した事件です。その時には長崎警備を請け負っていた佐賀藩は藩の財政逼迫のゆえに千名の兵の1/10しか配備していなかったので何も対処できなかった。それを契機に佐賀藩は藩政改革をして近代化に取り組み幕末最強の兵備を備えて維新に貢献したのではあるが。

 フェ-トン号事件後に佐賀藩と福岡藩は「捨て足軽」という自爆攻撃を考えて外国船に対処しようとした。先の大戦の特攻兵器のようなものです。 日本人は窮すればこのように考えがちになるのでしょうか?

 当時の欧州情勢はフランス革命により欧州には王政を打倒して共和制に変える動きが活発になります。 オランダもフランスに支配されてバタビア共和国になった。家康と交易協定を結んだオランダ王国は無くなっていました。 従いバタビアからは仏英の中立国の米船をオランダ船と偽り交易をしていた。英仏対立でフェ-トン号はオランダ船の拿捕を目的として長崎に来航したのです。

 


    フェ-トン号関連歴史年表

 1760    イギリス産業革命
 1775    アメリカ独立戦争
 1787-99    フランス革命 
 1789     ワシントン米大統領就任
 1798    ナポレオンのエジプト遠征
 1799    オランダがフランスに負けて属国・バタヴィア共和国になる
 1808    フェートン号事件
 1811   英国のジャワ攻略
 1818   ゴルドン浦賀来航、英国との通商要求
 1824   水戸大津浜と薩摩の国宝島に英国捕鯨船乗組員が上陸
 1825    外国船打ち払い令
 1853    ペリ-来航


 

 フェートン号航海日誌  元船乗りの小野三平氏が翻訳


 石橋正明氏が30年ほど前に偶然にフェ-トン号の航海日誌が長崎図書館にあることを知り複写を手に入れた。長崎在住の元船乗りの小野三平氏が戦前に翻訳されたものがある。


 最近のインタ-ネットとデジタル改革でそれの解読を石橋氏は続け進んだ。 彼は「フェ-トン号記念館」という興味深いサイトに関連することを発表されています。 薩摩の密貿易の件もおもしろい。

 小生のような薄ペラい郷土史と違い、専門家のような読み応えのあるものになっています。


   フェ-トン号記念館
  https://phaetonmuseum.com/ 

   幕末の国際情勢とペリ-来航
  http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-532 



      2021-2-16


 




    戦国日本とフィリピン

     スペイン古分書通じて見た

 

 奈良靜馬著      経営科学出販、 

 

  フィリピンを植民地にしたスペインと対した秀吉と家康である。 スペインの古文書を読み解き本書が掛かれた。昭和17年講談社出販であるがGHQにより発禁処分された本書です。

 秀吉のバテレン追放令は有名であるが、同時に日本人奴隷の売買を禁止したことは学んだ覚えがない。 戦国時代でも「乱捕り」と云って合戦の後に生け捕って戦利品として売買されていた。このことも学校では学ぶことは無いようです。 秀吉が九州征討のときにキリシタン大名や宣教師が奴隷交易をしていたことに気が付き禁止令を発した。 また朝鮮征伐の前にフィリッピンへの降伏勧告を出している。 本書を読むとマニラの防備は大したことがなく、仮に薩摩一国だけでも勝利できたであろうことが分かる。 スペインは無敵艦隊が敗れて衰退の時期に入っていたのである。

 ここで家康が海外貿易に積極的であったのを三浦按針・ウイリアム・アダムス初期徳川幕府の通商条約にて記してある。

  

鎖国までの道のりは下記年表をご覧ください、

 

16~17世紀、ポルトガル(緑)とスペイン(黄)との貿易ル-ト

 

 

   戦国歴史年表

1571  スペインがフィリピンを占領

1580  スペインがポルトガル併合

1581  オランダがスペインから独立

1582   本能寺の変

1587   秀吉九州征伐、 バテレン追放令と奴隷売買の禁止

1588   スペイン無敵艦隊敗れる

1591   秀吉がフィリピンに対し降伏勧告、以降三度にわたり、フィリピン総督に降伏勧告状を出している

1592   文禄の役

1597   慶長の役

1600   関ケ原の戦い、  イギリスが東インド会社設立

1602   オランダが東インド会社設立

1609   オランダが平戸に商館設立

1613   イギリスが通商許可を得る、 慶長遣欧使節出る

1614・15   大阪冬の陣・夏の陣

1616   家康の死、 明朝以外の船は長崎・平戸に限定

1618   30年戦争

1620   三浦按針が平戸で死亡

1623   イギリスが平戸商館閉鎖

1624   オランダが台湾占領、 スペインとの国交断絶、来航禁止

1628   ノイツ事件・浜田弥平衛事件

1633・34・35・36   第1次・第2次・第3次・第4次鎖国令   

1637   島原の乱

1639   第5次鎖国令  ポルトガル入港禁止

1640   ポルトガルがスペインから独立

1641   オランダ商館を平戸から長崎出島へ移す

1644   明が滅ぶ

1673   リタ-ン号事件 イギリスとの交易再開拒否。 以降オランダのみの来航となる

 

      2025-4-16