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マリア・ルス号事件と芸娼妓解放令

幕末開国 まとめ

西郷南洲顕彰館と西郷洞窟

幕末四兄弟

薩摩藩 英国留学生記念館  いちき串木野

隠岐神社  因屋城

渡辺昇を訪ねて  大村藩

藤堂高虎

永平寺

長町武家屋敷 金沢

ひがし茶屋街  金沢

 

 








   薩土盟約  御手洗4藩軍事同盟


  薩長同盟が成立、第2次長州征討に長州が勝利、大政奉還、王政復古、鳥羽伏見の戦い、江戸無血開城の流れで明治維新が成立したと理解してはいる。
 薩度盟約、薩長芸3藩盟約、御手洗条約などの最近知ったものとの続がりが、小生にはよく分からないので整理してみました。


 幕末年表

1866年 慶応2    1/21     薩長同盟
           6/7     第2次長州征討
          7/20 将軍家茂死去
          8/20 徳川慶喜将軍就任
                    

   徳川慶喜

           8/21    孝明天皇、長州征討停戦命ず
           12/25    孝明天皇崩御

1867年 慶応3  3月  島津久光 藩兵1000人と入京
         5月  四侯会議 島津久光、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城
         5/23  徳川慶喜の勝利、四侯会議失敗
         5/25  薩摩武力討幕を指向
         6/12  龍馬の船中八策
         6月  後藤象二郎は容堂に大政奉還を提言
         6/19  島津久光は長州の品川や山県と引見
         6/22  薩土盟約 薩摩・小松、西郷、大久保と土佐・後藤、
             寺村、真鍋、福岡、 浪人・龍馬、中岡が陪席
             大政奉還を薩摩が了解、これにより西郷が挙兵のために長州派遣を中止。
         6/28  芸州・辻に同意を得る
         8/14  長州へ大政奉還建白は武力討幕への大義名分と説明
         9/8  薩長芸三藩盟約による共同出兵計画
         9/9  薩土盟約は解消
         9/28  久光が討幕否定の通達
         10/3  土佐による建白書提出 
         10/4  芸州による大政奉還の建白
         10/8  三藩の討幕再確認   
         10/14  大政奉還が実行 、討幕の目論見が白紙に
         11月初旬 御手洗で薩長芸土4藩の軍事同盟密約と新政府綱領8策を結ぶ。
              長州・大村益次郎・山県有朋、薩摩・大久保・大山格之助、
              芸州・池田徳太郎・船越洋之助、土佐・龍馬・後藤象二郎
         11/8  龍馬御手洗を立つ
         11/15  龍馬暗殺 
         11/26  御手洗条約 長州軍を芸州藩が上方に先導する約定
         12/9  王政復古 薩摩と土佐の対立を芸州辻が討幕にまとめる
1868 慶応4    1/3  鳥羽伏見の戦い
          4/11 江戸城無血開城
          9/8  明治に改元

 

 譜代による幕府の専制政治がくずれて、喫緊の課題の解決のために薩摩は四侯会議にる打開を試みた。雄藩連合による政治・薩摩の目論見は慶喜の巻き返しにより失敗した。薩摩は武力討伐を指向する。薩摩は大政奉還が成るとは思わないが、それの拒否が討幕の大義を得ることになるということで、土佐の提言にのり、龍馬や中岡の陪席により1867年6月に薩土盟約を結ぶ。これは議会政治の採用による手段としての大政奉還による王政復古を採択し、武力討幕を原則回避する方針となった。

 約定書の内容は以下の7箇条から成る。
1.大政の全権は朝廷にあり、皇国の制度や法の一切は京都の議事堂から出るべきである。
2.議事院は諸藩の費用供出で成り立つ。
3.上院と下院を分け、議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで正義の者を選挙し、諸侯も職掌によって上院に充てる。
4.将軍職は執政の最高官ではないので、徳川慶喜は職を辞して諸侯の列に戻り、政権を朝廷に帰するべきである。
5.諸外国との条約は兵庫港(神戸)で新たに外務大臣が交渉し、新条約を制定して通商を行う。
6.律令以来弊害のある朝廷の制度を刷新し、地球上に恥じない国体を建てる。
7.皇国復興の議事に当たる者は公平無私を貫き、人心一和して議論を行うべきである。

 しかし1867年9月9日盟約は解消される。土佐と薩摩は同床異夢であった。それより前の9月8日に薩長芸による出兵盟約がかわされている。薩長の思惑とは異なり将軍慶喜は大政奉還を受け入れる。


   山内容堂

 土佐の容堂の意向とは異なり11月に薩長芸土による御手洗の討幕密約がなる。(これはつい最近述べられるようになった)その下旬には御手洗条約にて長州軍を芸州が上方に先導する条約が成る。王政復古が宣言され、薩摩の独断専行の先駆けにより鳥羽伏見の戦いに勝利して、明治維新が成る。



  御手洗薩長芸土4藩軍事同盟密約は軍事同盟と新政府綱領8策が御手洗で龍馬も参加して結ばれる。この密儀は龍馬が60年間黙っているように皆へ約束をさせた。ゆえに新谷道太郎がその期間を経て世に出す。彼はそのために山陰に隠れて生活する。まだ定説になっていないが本当でしょう。 龍馬はそ後で御手洗から京にのぼりまもなく暗殺された。 龍馬を暗殺した犯人が薩摩黒幕説があるが、御手洗で龍馬ともども4藩同盟成立あるのなら、それほど日数が暗殺まで経ていないのだから、薩摩節は無いと思われる。


              2018-1-28



      新島襄と快風丸


 新島襄 1843-1890


 新島襄は安中藩士に生まれた。安中藩は備中松山藩の分家です。 新島は幕府の軍艦操練所で学んだことから、備中松山藩が購入した洋式帆船(スク-ナ-)快風丸の廻航を頼まれた。 その縁で、快風丸の函館行の運行があり、米国への密航の思いで乗船し、函館に行く。 藩の乗船許可が下りないのでわざわざ備中松山藩から安中藩へ願い出て許可をもらう。 函館でアメリカ密入国をさせてくれる船を捜す。坂本龍馬の親類の沼部琢磨などの協力を得て、米船ベルリン号にて上海に渡り、ワイルド・ロ-ヴァ-号に乗り換えてボストンに着いた。
 その船主であったA,ハ-デイ夫妻の援助を受ける。この当時の米国の慈善はすばらしい。彼だけではなく他の日本人が援助を受けた話は耳にします。
 アマ-スト大学では学士を取得。札幌農学校に来日するクラ-ク博士の授業を受講。そのきっかけで彼は来日することになったという。
 新島は岩倉使節団の通訳として参加。ヨ-ロッパに渡り教育制度の報告書を提出し、それが明治の学制改革に大きな影響を与えた。 宣教師となり日本に帰国。 大河ドラマ「八重の桜」では、学校設立のために講演を行い5000ドルの寄付を集めるシ-ンがある。ハ-デイ夫妻が演説原稿を読みこの内容では寄付は集められないと、事前にアメリカン・ボ-ドの有力者に寄付を頼んだ故であるという。日本へ来て同支社大学を建設するくだりは皆様ご覧になってよくお知りになっているでしょう。
 彼は因縁の有る快風丸で備中松山へ行き、伝道しています。その演説で女子教育に活躍する福西志計子に大きな影響を与えた。


 快風丸

  快風丸諸元

 155トン、全長31.5m、全幅 6.8m、 ニュ-ヨ-ク建造「ゴ-ウルノルワラス」 1862年・文久2・9月 18,000ドルで購入


    2019-8-3




     早島陣屋・早島城・天城陣屋


早島陣屋、早島城、天城陣屋の図



 晴耕雨読ならぬ晴航雨城である小生。 倉敷にヨットを係留している。そこでクル-ジング準備・整備中の雨天は城廻りとなる。 今回はJR瀬戸大橋線の早島駅で下車して早島城・早島陣屋・天城陣屋をカサさして歩いて来ました。 写真は雨のために鮮明を欠くものがあります。

 駅を降りて早島公園に向かう。 ところどころに昔の民家風の建物がある。 また、宇喜多堤の案内があった。 悪名高い宇喜多氏といえども堤をつくり、後に教科書にも載る児島干拓の最初の一歩となり領地経営には力を尽くした。



 早島町の民家



 児島と早島  昔は瀬戸をなし水路を船が通行して水運の要所であった。



 赤い線は堤の位置



 宇喜多堤石碑



 早島陣屋を探す。 そこは現在では小学校になっていて、横に案内板があるのみであった。 別名戸川陣屋と言い200年間治めたという。 あいにく休館日で戸川記念館を見ることができなかった。 戸川秀安は宇喜多直家の重臣で25000石を領した。国政を宇喜多秀家にまかされたが対立するようになり、家康預かりとなる。関ケ原で東軍に参じ功を挙げて庭瀬29200石を与えられる。その後断絶したが、家名存続を許されて幕府旗本として続く。



 戸川記念館



  早島陣屋 1709年築  わずかに残る堀と石橋



 その小学校の裏手奥に早島公園がある。 そこは城山ともいい早島城の跡地である。 遺構らしきものは見当たらなかった。その城主は武井将監といわれる。 備中高松城の前哨戦で高松城の北にある支城・冠山城の戦いで将監は加藤清正と一騎打ちで戦い死亡したという。秀吉はあっぱれと金子50両を与えたという。



 公園内の城らしい雰囲気の場所



 早島城の坂を下って今度は天城陣屋に向かう。 早島町は平成の大合併に加わらなかったので岡山で一番小さな町ゆえか趣のある民家が散見される。



 早島から天城へ向かう途中の民家1



 早島から天城へ向かう途中の民家2



  笹無山の案内板を見かけた。 源平合戦には詳しくないが、ここらあたりで藤戸合戦があったという。当時にはこの向こうは海で瀬戸を挟んで源平が対陣していた。源氏は海が不得手なので対岸の種松へ行くのに難儀する。佐々木盛綱は地元の漁師に浅瀬を聞き、先導させて馬で海を渡り源氏の勝利に貢献した。佐々木盛綱はその浦人を殺してしまう。残された母親は笹と聞けば憎いと言い、笹を抜き取った、それからこの地では笹無になったと云う。






 笹無山



 笹無山   藤戸合戦説明板




 なかなか天城陣屋を見つけられなかったが、高校の隣山にあるグランドであると分かった この陣屋は―国一城の制で岡山藩の下津井城が廃城になり、池田由之はこの地にお茶屋と称して陣屋を立てた。
 池田由之(1577-1618)は池田恒興の嫡男元助の嫡男として誕生。小牧長久手戦いで父・祖父ともに戦死。幼児であったので叔父の池田輝政が家督を継ぐ。長じて32000石で下津井城番になる。本家の国替えとともに播磨・鳥取・岡山とその居を変えた。最後は恨みに寄り大小姓に殺害された。






 天城陣屋跡  現在は天城高校グランド


 駅を降りてJR3駅ほど雨天を歩いたことになる、途中にタクシ-やバスを探すが見つからず。さすがに疲れて帰りはGoogl mapでバス停をみつけて帰る。


      2021-1-31

 

 

   人名政の島


 江戸時代の特異な制度の人名政は塩飽諸島の島々に適用されました。 そこは瀬戸内交通の要の地であるゆえ、古くから塩飽海賊の地であった。 秀吉の時代になって朱印状が与えられて、租税を免除され、公儀の海上輸送義務を負った。徳川幕府にも引き続かれた。 四人の年寄を設け自治を許される。政務は塩飽勤番所で行われた。 「人名」はなじみが無いが大名、小名、人名と続くことばであるのが分かる。 人名は1250石高を領有し、650人の加古役のものを呼ぶ。人名は個人に与えられたものであるが、株と同様に取り扱われた。

 それらを訪ねることができたのでまとめてみました。


 赤丸は人名政の島々とその集落


1. 与島

2. 本島

3. 広島

4. 手島

5. 佐柳島

6. 高見島

7. 沙弥島 (しゃみじま)

 今は陸続きになっていますが、かっては島でした。 柿本人麻呂がこの沖で遭難して流れ着き、歌が万葉集にあるとかで、歌碑があります。


   
 
 またこの島は弘法大使の弟子の理源大師がこの島の生まれたました。彼の胎盤を大きな石でフタをしたということで、それに触れるとたたりがあると、今でも漁港の入り口にふさぐように岩あり、それを残して漁港整備されました。


  


  

  真ん中の大きな石  瀬戸大橋が見える


8. 瀬居島

  今は陸に続がって坂出市の一部になっている。


9. 牛島

 本島の南にある島。 丸亀市から連絡船2便/日。
豪商であった丸尾五左衛門の住居が残る。咸臨丸の乗組員も他の島と同じようにこの島より出ている。

10. 櫃石島・ひついし島

 下津井の南にある島で最も本土側に近い島である。 島へ行くには、島民しか車で入れないので、バス便を利用することになる。

  咸臨丸の乗組員50名のうち35名が塩飽諸島の出身であるのでこの島も3名が乗り組む。


   2022-1-13


 

マリア・ルス号事件と芸娼妓解放令

マリア・ルス号

 この年になっても、小学生の時に見たテレビのニュ-スを覚えているものである。それはその年齢の子供には何を意味したのか分からない赤線廃止を伝える報道でした。映像で写っていた子供がなぜか塀ごしに中をのぞき見しているものでした。           
 人間の最古の職業といわれるお仕事ですので、今もその遊郭の雰囲気を残して自由恋愛と称して営業している店が関西にあるという。
 面白いことに、芸娼妓解放令は、明治5年(1872年)に日本の横浜港に停泊中のマリア・ルス号(ペルー船籍)内の清国人苦力を奴隷であるとして、大江卓を裁判長とする特設裁判所は解放を命じた事件を契機としていた。
 ペル-政府はこの事件に関して謝罪と賠償を要求した。この紛争解決のために仲裁契約が結ばれて、ロシアにおいて国際仲裁裁判が行われた。全権公使として榎本武揚が選ばれ、その法廷で、明治8年(1875年)日本側の措置は国際法にも条約にも違反せずとの判決が下された。
 明治の体制がまだ整わない中で、よくできた維新政府の英断である。しかしその中で日本の芸娼妓の問題はどうなのか?と追及された。政府は明治5年(1872年)太政官布告・芸娼妓解放令を発した。それは人身売買は禁止だが、売春そのものは禁止でなかったため、昭和32年の売春防止法・赤線廃止まで続くことになる。


吉原遊郭

 最近では児童買春の報道がやたらと多いように思います。オランダやドイツでは飾り窓で堂々と営業しているところもあります。国が変われば価値観が違うようです。

 話が前後するが、第1次大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会で、日本は人種差別撤廃を明記すべきと提案した。マリア・ルス号事件ともども日本は国際的に主張して発展させることができなかったのは、その後に大きな災いを避けられたかもと思います。後付けの言い方ですね。残念なことではあるが。

   2017-10-11

  幕末開国まとめ


 

 

西郷南洲顕彰館と西郷洞窟


  西郷隆盛の関連地図


  鹿児島城を訪ねたときに西郷洞窟、終焉の地、銃弾跡,私学校跡を見た。 西南戦争は私学校から城山で激戦があったのが分かる。最後は西郷洞窟から終焉の地に行き、そこで西郷隆盛は亡くなられたのである。

 ほどなく、西郷南洲顕彰顕彰館を訪ねた。 南洲神社・公園の一角に顕彰館は位置する。 西郷の思想・生涯・功績などが紹介されている。

 凡な小生には今もって西郷さんのことは分からない。それゆえ凡なのであろう。 西南戦争においても維新の時にはあれほど謀議をつくしたのに、戦闘を指揮したわけでもなく、策謀をつくしたわけでもない。 やりようによっては勝てたかもしれないのに、明治以降の西郷による違った世界を見てみたいように思えます。



  私学校の案内板 「おはんら何たることをしでかしたか」


  私学校跡


  西南戦争の銃弾跡 



  西郷隆盛の終焉の地


  西郷洞窟


   西郷隆盛  磯田道史サンによる

   西郷陣屋


        2023-7-19

 

 

 

  幕末の四兄弟


 左から、松平定敬・桑名藩、松平容保・会津藩、一橋茂栄・一橋家、徳川慶勝・尾張藩


 明治11年に撮った写真が上載のものです。有名な会津藩主松平容保をはじめいずれも幕末に活躍した。 その父は美濃高須藩主の松平義建(よしたつ)である。彼は、父・義和(よしなり)が水戸藩のは部屋住みであったが高須藩に養子として入った。高須藩は尾張藩の連枝の藩で水戸藩や一橋家ともうごっちゃまぜであります。義建は10男を成しており詳細は

 長男:源之助 1820年生、夭折
 次男:慶勝 尾張藩尾張徳川家養子
 三男:武成 浜田藩越智松平家養子
 四男:整三郎 1826年生、夭折
 五男:茂栄 高須藩主(義比)→尾張藩主(茂徳)→一橋徳川家養子(茂栄)
 六男:某 戊辰戦争で切腹
 七男:容保 会津藩会津松平家養子
 八男:定敬 桑名藩久松松平家養子
 九男:鐡丸 1849年生、夭折
 十男:義勇 高須藩主

 1. 徳川慶勝

 尾張14代藩主になり尊王攘夷を主張して安政の大獄で隠居謹慎を命じられる。弟の茂徳が15代藩主となった。桜田門外の変により復権し弟が隠居して、実子の義宜が16代藩主となり、慶勝は実権をにぎる。第1次長州征討の総督となる。内乱による外国干渉を慶勝は大いに危惧することから長州への寛大な処置をとった。長州への再征にも反対する。 鳥羽伏見の戦いのあと、500もの朝廷への帰順を誓約する書面を送りそれを受け取る。そのことで朝廷軍は江戸上洛を戦争することなく成し遂げる。明治への態勢を決めた最大の功労者といえるが、あまり知られていないようだ。

 2. 徳川茂徳(もちなが)茂栄(もちはる)

  高須藩11代藩主となる。兄慶勝の隠居謹慎で尾張15代藩主となった。兄慶勝の子を養子としていたので、隠居後はその義宜が16代藩主となる。15代将軍慶喜に代わって一橋家当主を継承して茂栄(もちはる)となった。徳川一族の総代的な役割で新政府と交渉にあたる。

 3. 松平容保 

 義和の子に、義建・高須藩主と容敬(かたたか)会津藩主がいた。義建の子容保と容敬の娘を結婚させ、養嗣子とした。会津藩9代藩主となる。京都守護職になった、これ以降幕末で活躍する。

 4. 松平定敬(さだあき)

 桑名藩主松平 定猷(まつだいら さだみち)の娘の婿養子となる。1863年京都所司代になった。禁門の変では兄容保と協力して京都を守る。鳥羽伏見の戦い後は謹慎した。藩論が恭順になり、桑名への帰国がかなわず、飛び地の柏崎にうつる。その後、会津で兄容保と再会し仙台より榎本の艦隊で函館へ渡った。函館戦争終結後上海に渡るが、逃亡を断念して明治2年に降伏して5年に赦される。西南戦争では元藩士を率いて遠征した。


          2017-1-22

 

 


薩摩藩 英国留学生記念館    いちき串木野



 記念館


 串木野駅からバスで薩摩藩英国留学生記念館へ行く。 あいにく雨で風の強い日和であった。 開館の30分前であったが、気持ちよく入場させてくれた。 帰りには、上写真の赤い送迎バスでヨット停泊地まで親切に送ってもらう。

 薩摩人のスゴイところは攘夷の気分が昂揚している時でも、薩英戦争で負けたのではなく実際は引き分けなのだが、自ら方針を固執することなく変更して、敵国英国へ留学生を派遣して学ぼうとするところである。 同じように長州も馬関戦争後に留学生を出すことになる。 薩長とも維新を成し遂げたわけだ。

 串木野で再度世界一周を準備しているNさんにお会いしたが、ここの地だからこその出来事だと云えよう。


 

 薩摩英国留学生


 

 テラスに作られている船のコックピット

 その日は時化の船上を想起させるような光景であった。


  詳しくは下記をご覧ください。

  薩摩藩 第1次英国留学生

  薩摩藩 第2次米国留学生

  長州ファイブ・5傑



               2023-7-2

 

   隠岐神社  因屋城
    




  菱浦と隠岐神社、   赤丸は菱浦ヨット係留地



  中の島の菱浦にヨットを係留した。 そこからフェリ-乗場にある観光案内所で自転車を借りて、隠岐神社に向かった。 フェリ-の到着時間に合わせてそこへ行くバスもある。 菱浦から諏訪湾沿いに海士町の役場を経由して隠岐神社に行くことができる。 所要時間は15-20分位でしょう。  

 隠岐神社は後鳥羽上皇を祀った神社である。 後鳥羽上皇が1221年(承久3年)執権北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れて隠岐に流された。NHKの大河ドラマで、もうすぐ承久の乱について放映されると思う。 御在所跡、御火葬塚、資料館を見た。




  隠岐神社 鳥居




  隠岐神社 拝殿



  後鳥羽上皇 御在所跡



 後鳥羽天皇御火葬塚、  1236年後鳥羽上皇が崩御され火葬



 ここの帰りに村上家と因屋城を訪ねた



  村上家と因屋城中の島

 

 後鳥羽上皇をお世話した村上家である。 資料館で案内の方に村上海賊とは関係があるのかどうかと尋ねた。 その関係した資料は見つからないと答えられた。 しかし村上海賊に関係した子孫の方はこの島にいるということです。 江戸時代であるのか明治なのか定かではないが、全国長者番着けにこの村上家は載っている。かなりの有力者であったのでしょう。  というより敷地から因屋城に行ける。 敷地の中に祖先が作った城跡の遺跡を持つ。 有力豪族であったのだろう。





 村上家・資料館



 戦国期には毛利に味方し1566年尼子についた丹後・但馬の海賊衆が攻めよせてきたが撃退した。




  因屋城の案内板





  本丸跡、(標高20m)  朝霞神社の祠


          2022-8-28

 

 

   渡辺昇を訪ねて  大村藩
    

 渡辺昇 1838-1913


  来年(2023年)の春まで、大村港にヨットを越冬することになった。 その係留準備作業を終えて、自宅にかえるまでの数日に大村城周辺を友人から自転車を借りて散策した。 大村城や五小路武家屋敷通りを見学。

 鞍馬天狗として描かれたのではないかと云われた渡辺昇について興味を持ち、地元に何かないかと尋ね歩いた。彼については下記のように取り上げている。


   渡辺昇と大村藩

   http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-567


 渡辺昇について観光案内所では何も知らないようである。 図書館と歴史資料館の人に尋ねても詳しくはないようだ。 旧楠木正隆屋敷の前の案内板に渡辺昇と兄・清 兄弟の屋敷跡の図があった。 そこらあたり訪ねる。 しかし、地元の人に尋ねた、80歳になるおばあちゃんにも聞いたが、確かな記憶は無いようだ。 役所の作った案内板も存在せず。 明治になって昇・子爵と清・男爵になった兄弟であるが、維新の成就とともに東京に行って栄達し、地元への貢献が少なかったのであろう、地元では忘れられてしまったようだ。

 個人的には彼は剣豪で、幕末には多くの人を切った。栄達して、それを思い出し、眠れない夜を過ごしたと云うので、むべなるかなとも思われるが。



 楠木正隆邸と渡辺昇邸  案内図



  上図にある渡辺昇・清邸跡と思われる交差点



 渡辺清の娘・石井筆子 (1861-1944)は女子教育や知的障碍者の施設の維持・発展に尽くし、ここ大村に銅像が立つ。オランダ、仏で2年間学び英語・仏語・蘭語が話せ鹿鳴館の華とも云われたという。



  石井筆子 銅像、  父や叔父さんのものは地元にはない



    2022-12-5

 

 

      藤堂高虎

 

 1556-1630
 
 藤堂高虎の作ったお城を今年に見る機会があり、興味を持ったので書いています。 今まで抱いていたものとは違った人間像が見えてきました。 浅井に属した人間が明治まで生き延びたのですから、たいしたものです。

 下の年表にあるように主なものでも、浅井家、豊臣秀長、豊臣秀吉、徳川家康と主君を変えています。それでも家康の死亡の際にはわざわざ臨終に呼ばれた最も信頼された外様大名です。
 変節漢と言われていましたが、人情に厚く、禄だけでは人は心服しないと言い、情けをもって家臣と接しないようでは禄を無駄に捨てるようなものであると述べている。また実際仕えた落ちぶれた元主君の子息を仕官させるよう骨折っています。

  年表
1556 近江の藤堂村で生誕

1570 姉川の戦いで浅井長政の足軽

1573 浅井家滅亡 阿閉 貞征、磯野 員昌、津田 信澄に仕える

1576 豊臣秀長に300石で仕える

1581 3000石加増、鉄砲大将

1583 賤ヶ岳の戦いで1300石加増

1585 紀州征伐で5000石になる、四国攻めで5400石加増で1万石の大名

1587 九州征伐で2万石に加増,正5位佐渡守に叙任

1591 秀長嫡男秀保に仕え文禄の役で戦う

1595 秀保の早逝で高野山へ、生駒親正に説得され還俗、5万石に加増され宇和島7万石の大名になる

1597 慶長の役で大洲1万石を加増で8万石

1600 東軍として関が原に参戦、今治12万石を加増され20万石に

1608 22万石で津へ転封

1614.1615 大阪冬の陣と夏の陣に参戦、5万石加増で27万石に

1617 5万石加増され32万石に

1623 死去

 今年に行ってみた見た宇和島城、今治城、甘崎城など高虎が築城したものです。名手といわれて下記のように多くの城に関わりました。


  藤堂高虎の関係した城


・1585(天正11年) 丹波・出石城

・1586(天正13年) 大和・郡山城

・1587(天正14年) 京都・聚楽第(縄張り)

・1587(天正15年) 紀伊・猿岡山城

・1594(文禄3年) 京都・伏見城(秀吉の命により助工)

・1596(慶長元年) 伊予・宇和島城

・1597年(慶長2年) 伊予・大洲城

・1601(慶長6年) 近江・膳所城(築城助工及び縄張り)

・1602(慶長7年) 伊予・今治城及び伏見城の修理助役

・1606(慶長11年) 江戸城大修理の縄張り

・1608(慶長13年) 伊勢・津城の大改築及び伊賀上野城の大改築
            甘崎城 廃城
・1609(慶長14年) 丹波・篠山城

・1610年(慶長15年) 丹波・亀山城の普請の手伝い

・1619(元和5年) 京都・二条城の縄張り及び和歌山城の石垣工事

・1620(元和6年) 大坂城の修復

・1623(元和9年) 山城・淀城築城の普請を手伝う

    2016-11-7


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   永平寺

 

 福井駅、永平寺、一乗谷

 福井駅より永平寺行の直通バスに乗った。 30分ほどかかる。 着いて参道の坂道を登ると、大きな寺院建物・伽藍を目にする。

子供の頃に親がここへ行った覚えがあります。 最近は神社と教会をよく訪ねて取り上げている。それにしては宗教に縁遠い老人であるので、永平寺は禅の何かのお寺である程度の知識です。 オソマツながら、テレビの番組で見た座禅を組んでいた修行僧がパチンと肩を打たれる映像ぐらいしか浮かばない。 見学中に若い彼らをよく見かけます、話しかけないで下さいと注意書きがある。

  道元(1200-1253)は南宋に渡り学んで帰国して、比叡山と対立する。その弾圧を避けるために地頭の波多野氏の招きで1244年に曹洞宗の永平寺をここに開く。 現在は大小七十余りの建物を持つ曹洞宗の大本山である。

 

  案内図

 残念ながら建物の形や姿は良いのであるが、コンクリート造りが多いように見受ける。 もちろん木造製の建物もある。 案内書きにまかせて館内を濡れることなく巡回できるけれど、外側で階段を踏みしめながらの参詣も良いので、どちらが良いのかは好みの問題であるかもしれない。

 

  参道から正面の永平寺

 

 傘松閣 内部天井

 

 

 

 中雀門  その奥に仏殿

 

  左の吉祥閣と右の傘松閣

 

 山門

 

         2024-4-11

 

 

 

 

 

   長町武家屋敷 金沢

 

 金沢駅よりバスで香林坊にて下車してここは徒歩5分です。

  金沢有名観光地

 

 大野用水沿いに加賀藩の上・中級武士の屋敷がある。 お城に近いほど上士が住むものであるが、100万石の格ゆえに他藩では家老をつとめる者でもここでは中士・平士である。

 加賀藩の家臣団は、軍事組織と行政組織の2つを組み合わせたもので5代藩主綱紀によって編制されたものである。
「八家」から「平士」までの階層は、「御昵近の侍」と呼ばれ、藩主へのお目通りが許されていた。「人持組」に次ぐ身分の「平士」には、藩主の大部分が属し、幕末の資料によると1400家を数えた。知行高は、最小80石から最大2400石に及び、中には切米取や扶持米取もいたようである。
 藩内のほとんどの役職は、平士階級に属する藩士たちによって管理・支配され、加賀藩における行政組織の中枢をなしていた。


 現在も居住者が居り、ほとんどが非公開である。 高田家の中へ入った。 母屋は無く庭園になっている。

 

  大野用水

 用水は流れが予想よりも速く、清水が流れている。

 

  長屋門の武家屋敷

 

 

 旧高田家跡  550石の藩士であった、440坪あったと云う

 

    2024-4-13

 

 

 

   ひがし茶屋街  金沢

 京都駅より1日巡回バス券 800円を購入してここを訪ねる。 街並み保存地区であり、よく整備保存されている。 お昼の訪問であったので、京都で見かけると云う芸妓さんは見かけなかったけれども、若いカップルが和装してポーズを決めてカメラマンが撮影しているの見た。 このようなツアーがあるのであろうか、他所でも目にする。

 金沢芸妓   https://kanazawageigi.jp/chaya/higashi.html

 

  金沢有名観光地

 

 「ひがし」と「主計町」 茶屋街図

上の2つの他に「西茶屋街」があるというが、訪ねていない。

 

  ひがし茶屋街 その1

 

  ひがし茶屋街 その2

 

 

  ひがし茶屋街 その3

 

  主計町茶屋街  浅野川沿いにある

 

  泉鏡花記念館

 

      2024-4-15