塩野七生


 旧 塩野七生

ギリシャ人の物語

ペリクレス  ペリクレスの戦没者追悼演説

フリードリッヒ2世の生涯

十字軍物語 宗教戦争として






    ギリシャ人の物語

    https://ameblo.jp/yacht-hayame/entry-12818181357.html


  



 塩野七生さんの最新刊ギリシャ人の物語 1 を買いました。 彼女曰く、もうあと2-3作でしょうと。 ローマ人の物語は世に出すのに1年1作で12年間かかりました。

 貧しい老人としてはそれをハードカバーを買うのをガマンして文庫本がそろう、それも中古を混ぜてのことですが、一気に買い読みました。 
 最近はこちらの人生も残りすくなくなったので、どちらが早いか駆け比べの状況です、もう、そんな余裕はありませんのでハードカバーの新作を買っています。

  ローマ人の大作を読んでいたころには、まだ、ブログをやっていなかったので、書くことがいっぱいあっただろうと思います。残念です、今となって読み返してブログにあげるには難しいです。

 

       2015-12-27


  ご注意

 七生さんを七海と記しているところ多数ですが、彼女は若いころにエーゲ海などをヨット周航したこと、爺爺が船乗り稼業でヨット乗りであったところから意図的に変えていると言いたい。 だがこれは転換ミスで大雑把な性格で気が付くのが遅れた言い訳です。

 


     ペリクレス


        塩野七生さんによるペリクレス時代・アテネの黄金期  紀元前461年から429年


 紀元前495-429年



  アテネの黄金期はペリクレスの時代です。繁栄は、努力と苦労を伴うものである。その期の性質は創業者のものとは違う。ペリクレスの30年間もその連続になるのである。

 2代目にあたるペリクレスの課題は

1. アテネの民主政を機能させること。

2. ペルシャ戦役で勝利により獲得したエ-ゲ海の制海権を維持すること。

3. ペルシャ戦役の勝利で得た果実であるデロス同盟を堅持すること。

 歴史家ツキデイデスがこの時代を「形は民主政体だが、実際はペリクレスが支配していた」 ペリクレスは33歳で、年に1度のストラテゴスの選挙に30年間に渡って当選した。アテネでは、市民集会が最高意思決定機関である。 彼が自分の意思を通すためには、名門の地位も資産家も役に立たずに、言葉を駆使しての説得力で30年も勝負しなければならなかった。 言葉を使った彼の説得力は、視点を変えれば事態もこのように見えてくると示したことにあった。我々の役割は国民の要望をくみ上げてそれを実現することにあるとは言わずに、これらの理由でこの政策が最も適切であると自分の考えをはっきり示す、この政策の可否は君たちにあるのだと明言した。そして最後には、市民は常に将来の希望を抱いて彼の演説を聞き終わる。 彼の演説集があれば読みたいものです。 政治家の言葉が空洞化している日本には耳の痛いところです。

 彼は、公職につく市民には日当を払うという法案を提出して、日々働くことで家族を養っていける層にも、抽選で公務員になることになっても、それにより公務員になることを辞退しなくてよくなった。ペリクレスは権力欲しさに票を国のカネを使って買った、と反対されたが。彼の政治哲学はアテネ市民は誰でも、政治・行政・軍事にかかわらず、国の公務を経験すべきであることであり。  また、アテネは海軍によってなり、その戦力は3段層ガレ-船による。その1隻200人の乗り手のうち漕ぎ手は170人を要した。他国はそれに奴隷を当てたが、アテネは市民がになった。それゆえに漕ぎ手は「練達技能集団」になり、海軍の強さの根源であった。その漕ぎ手に対する生活保障の制度化も、公務員にたいするものと同じようにペリクレスが行った。アテネの労働者階級の生活保障をすることで安心させた。これが民主アテネの地盤つくりであった。

 ペリクレスの死の報は、アテネ市民にはさほどの感慨もなく受け取られた。国葬にもならなかった。彼は、何事につけても国民に寄り添うとか要望に耳を傾けることもせず、叱りつけてリ-ドするのみであった。彼は運命は神々が定めるものでなく、人間が切り開くものと言い続けてきた人である。こうも貴族的でこうも非民主的な男によってアテネの民主政は、それ以前にも以後にも実現しなかったほどに機能できた、彼の死がアテネにもギリシャ全体にも終わりの始まりになるのであった。



   2017-9-1





     ペリクレスの戦没者追悼演説



 ペロポネソス戦争第1年目の追悼演説はペリクレスが行った。下記に記したものは、塩野七生の「ギリシャ人の物語Ⅱ」からです。2500年後のヨ-ロッパの高校の教科書に載っているそうです。



パルテノン神殿  ペリクレス立案

 「我々のアテネの政体は、我々自身が作り出したものであって、他国を模倣したものではない。名付けるとすれば、民主政(デモクラツイア)と言えるだろう。国の方向を決めるのは、少数の者ではなく多数であるからだ。

 この政体下では、すべての市民は平等の権利を持つ。公的な仕事への参加で得られる名誉も、生まれや育ちに応じて与えられるものではなく、その人の努力と業績に応じて与えられる。貧しく生まれた者も、国に利する業績をあげた者は、出自による不利によって名誉からはずされることはない。

  我々は、公的な生活にかぎらず私的な日常生活でも、完璧な自由を享受して生きている。アテネ市民が享受している、言論を始めてとして各方面にわたって保証されている自由は、政府の政策に対する反対意見はもとよりのこと、政策担当者個人に対する嫉妬や中傷や羨望が渦巻くことさえも自由というほどの、完成度に達している。  とは言っても市民たちの日々の生活が、これら渦巻く嵐に右往左往して落ち着かない、というわけではない。

 アテネでは日々の労苦を忘れさてくれる教養と娯楽を愉しむ機会は多く、1年の決まった日に催される祝祭や競技会や演劇祭は、戦時であろうとも、変わりなく実施されている。  そしてこのことに加えて次に述べることも、我々の競争相手の生き方の違いを示す例でもあるのだ。

 かの国は外国人を排除することによって国内の安定を計るが、アテネでは反対に、外からくる人々に対して門戸を解放している。他国人にも機会を与えることで、われらが国のより以上の繁栄につながると確信しているからだ。

 子弟の教育に関しても、我々の競争相手は、ごく若い時期から子弟にきびしい教育をほどこすことによって勇敢な気質の持ち主の育成を目指しているが、 アテネでは、かの国ほどは厳格な教育を子弟に与えていない。それでいながら、危機に際しては、彼らより劣る勇気を示したことは1度としてなかった。

 我々は、試練に対処するにも、彼らのように非人道的で苛酷な訓練の末に予定された結果として対するのではない。我々の一人一人が持つ能力に基づいての、判断と実行力で対処する。我々が示す勇気は、法によって定められたり、慣習に縛られるがゆえに発揮されるものではない。一人一人が日々の生活をおくることによって築き上げてきた、各自の行動原則によって発揮されるのだ。 現在諸君が目にするアテネの栄光と繁栄は、これら多くの無名な人々による成果であり、これこそがこのアテネにふさわしい、永遠の命を与えることになるのである。

  われわれは美を愛する。だが節度をもって。

  われわれは知を愛する。しかし、溺れることなしに。

  われわれは、富の追及にも無関心ではない。だがそれも、自らの可能性を広げるためであって、他人に見せびらかすためではない。



 アテネでは貧しさ自体は恥と見なされない。だが、貧しさから抜け出そうと努力しないことは恥とみなされる。 私的な利益でも尊重するこの生き方は、それが公的な利益への関心を高めることにつながると確信しているからである。私益追及を目的に行われた事業で発揮された能力は、公的な事業でも立派に応用は可能であるのだから。  このアテネでは、市民には誰にでも公的な仕事に就く機会が与えられている。ゆえに、政治に無関心な市民は静かさを愛する者とは見なされず、都市国家を背負う市民の義務を果たさない者と見なされるのだ。  これが、諸君が日々目にしている、ギリシャ人すべての学校と言ってもよいアテネという国である。 戦没者たちは、このアテネの栄光と繁栄を守るために、その身を捧げたのであった。

 この人々の尊い犠牲に国家が報いることは、その犠牲を心に留め続けることと、彼らが残した遺児たちの青年に達するまでの教育を、経済面で保証することぐらいしかない。  だが、アテネ市民全員に約束出来ることは、まだ一つある。 それは、戦時とて海陸双方の戦力を増強せざるをえないとはいえ、その一方では市民の日常生活が以前と変わりなく続けられるよう、全力をつくす、ということだ。なぜなら、この双方とも成し遂げてこそ、アテネは、アテネの名に恥じないポリス・都市国家であることを明らかにすることになるからである。

 さあ遺族たちはまだしばらくの間、肉親を失った哀しみにひたるがよい、だが、その後は家路につかれよ。 他の人と同じように」

   以上 ギリシャ人の物語Ⅱ 塩野七生さんによる

          2017-9-3



     フリードリッヒ2世の生涯   
      

フリードリッヒ大王
                         
                         
 
フリードリッヒ2世は歴史上2人います。一人は1712-1786年のプロイセン大王です。バッハの息子のカール・フィリップ・エマニュエル・バッハが彼の宮廷楽団のチェンバロ奏者としていました。父のバッハがそこに行き王様から音楽のテーマをもらい、即興で弾いたのが音楽の捧げものBWV1079として有名です。専制啓蒙君主でボルテールと交際し他国の君主にも尊敬され、国が滅亡しそうになるが、代替わりした後継者の尊敬を集めて講和できて助かったエピソードがあります。現在のプロイセンは先の大戦で負けたことからロシアの飛び地やポーランドの領土となっています。でもそれまでのドイツ統一の盟主となった国です。


 もう一人は父親のハインリヒがノルマン王朝のコスタンツアと結婚したことから、神聖ローマ皇帝に加えてシチリア王にもなったフリードリッヒ2世・1194-1250没です。当時のシチリアはイスラム・ビザンテイン・ラテン文化が混在して融合していた背景があり、4歳でラテン語を習得しギリシヤ語・アラビア語など6つの言語を習得した。幼児の時は両親がいなくて不遇です。その当時の独特な文明の影響の中で言語の習得ばかりでなく、他のことも独学で自由に学んで育ちます。青年になり神聖ローマ皇帝の継承争いのなか、彼は選挙により皇帝に選ばれる。わずかな人数でドイツに渡り実権を掌握する。この時は法王によってローマで戴冠する。これ以降は生涯にわたって法王と争うことになります。帝国を中央集権化とローマ以来途絶えていた法治国家として運営していくことを彼は目標とし、メルフィ憲章を創設して実施しました。


 法王の意に従うことがないので、破門されます。その中で外交のみで戦うこともなく、無血でエルサレムの返還を実現した・第6次十字軍。法王は血を流さないでエルサレムを返すこと自体が不満であった。まあ今でいう原理主義者ですね。イタリアではロミオとジュリエットの世界で描かれている、皇帝派と法王派の争いが続きます。法王との争いの詳細を情報公開で知らせることにより、破門されても理解を得ていました。法王と国王の争いは叙任権争いと教わりましたが、そうではなく領土も含めた権力闘争です。地上での神の代理人とされている代々のローマ法王を通じて神は皇帝や王という世俗の君主たちに統治を委託してきたと考えているのが中世です。コンスタンチヌスの寄進書が偽書と判明するのは15世紀ですのでまだ200年後です。


 中世にいた早すぎた啓蒙君主が皇帝フリードリッヒ2世です。戦いで勝利した君主ではなく選挙で選ばれた皇帝でした。従い戦争するにも領地よりの軍隊は少なく、せいぜい2万ほどの寄せ集めでしたので完全に制圧することはできませんでした。自身の能力が高かったので統治できたのですが、死んでしまうと徐々に法王が陰謀の限りを尽くして奪っていきます。フランス王の弟にシチリアへ陥入させ、最後はシシリア王国はフランスのものになります。後になって、まとまったフランスが権力を行使できる体制が整うと、法王はアビニョンに幽閉されることになります。自らまいた種ですね。


 コムーネといわれる自治都市がミラノを中心として法王側について皇帝と対立します。自治都市はのちのルネッサンスの中心となる勢力ですが、皇帝の早すぎたルネッサンスを妨げました。政治は賢公によれば効率的なことは確かで、時代を超越してことをなすことができます。皇帝フリードリッヒ2世がいい例ですね。でもはかなくて例外的になる宿命です。悪公の例は現代でも過去でも多く有りすぎです。


 日本の例に例えると、13世紀ですから鎌倉幕府の時代です。頼朝のように軍事で制覇していないで、高知の守護・地頭が選挙により選ばれて将軍になり後醍醐天皇と権力闘争をするようなものです。おまけに両親がいなくて成長した青年です。日本を法治国家にするため、新律令憲章を制定し、足利の学校でリベラルアーツを教える。死ぬまでは成功して、巧みな外交で元寇さえも起きずにパクスジャパンの平和を実現したのが皇帝フリードリッヒ2世です。
 まあ、余計な説明を聞くより塩野さんの本をお読みください。読むつもりの人に害になるかもしれません。


   皇帝フリードリッヒ2世の時代13世紀の音楽   2分
  http://www.youtube.com/watch?v=4nI-9ildOus&list=PL32B037BF0813B95E




    十字軍物語 宗教戦争として
  
       塩野七生さんによる  
                         

第1回十字軍 エルサレム攻略
                         
                         

 塩野七生さんの十字軍物語3巻を読み終えました。書きたいのがあと1作と述べておられますので、今まで文庫本で読んできましたが、この前のフリードリッヒ2世と今回とでハードカバーに手をだしました。どちらが早いかの歳でこれだけは塩野さんに勝って小生がおさらばするのかもしれません。司馬遼太郎さんの亡くなられたのも突然で、今でもあともう少し書いてほしかった気持ちがいっぱいです。

 さてネストリウス教でもゾロアスター教でもコプト教にしろ、今の若者に正社員になれるご利益があるとワイドショーでそのことが放映されれば、たちどころにその教会にお参りする若人が行列するのが、日本のこだわりのない宗教事情ですね。
 老生にとってはポリフォニーのキリスト教の宗教音楽は好きですが、一信教どうしの聖地奪還の戦争にはあまり関心がありません。ルネッサンスの時代は大好きですが、中世の何とか家の領地争いとか親兄弟殺しの相続紛争に興味はないのです。でも困ったことに十字軍はよく受験で出題されます。キリスト教サイドのフィルターがかかった西欧中心の歴史を学ぶゆえでしょう。

 キリスト教とイスラム教は歴史では長く戦います。現代では宗教的な面を表に出さない歴史的な成熟があります。これは十字軍についての西欧側での負い目や反省点を現代の指導者レベルでは共有しているからでしょう。戦いは今でもやっています。
 でも宗教を前面に立てて多くが信じて戦った戦争は下記のものです。
貧民十字軍 1096年 貧者ピエールのよびかけ、
第1回十字軍 1096年から1099年 諸侯による十字軍、エルサレム攻略成功
第2回十字軍
  1147年から1148年 ルイ7世他 ダマスカスをねらうが大した戦闘もせず撤退

1187年   エルサレム失う
第3回十字軍  1189年から1192年 サラデインが88年ぶりにエルサレム占領    リチャード1世獅子心王は休戦協定で巡礼の自由は確保1/4世紀続く
第4回十字軍 1202年より1204年  ヴェネツイアに支配され東ローマ帝国の
コンスタンチノポリスの占領 
第5回十字軍  1218年より1221年  ハンガリー王ヤオーストラリア公がダミエッタ
攻略、ナイル氾濫で撤退
第6回十字軍 1228年から1229年 破門されたフリードリッヒ2世戦闘せず外交で
エルサレムを得る
第7回十字軍 1248年から1249年 聖王ルイ9世が大敗北して捕虜になる完全失敗
第8回十字軍 1270年 再度 ルイ9世がチュニスをめざすが死亡

1291年 アッコン攻防戦で陥落、十字軍国家消滅 

 これ以降にはロードス島攻防戦・ウイーン攻防戦・クレタ島攻防戦・・マルタ島攻防戦などがありますが、領土や利権をめぐる抗争を宗教で色つけしただけです。


     2014-2-2