熊本の城 まとめ
長崎城 まとめ
1. 仙台城
十文字城 ・館
白石城と薬師温泉
白石城と薬師温泉
亘理から岩沼にて常磐線から東北本線に乗り換えて白石駅に着く。そこから白石城までは15分程度で行ける。見学を終えて薬師温泉で日帰り入浴を楽しんだ。
大河ドラマの『独眼竜政宗』の放送で、これにより片倉景綱も注目され、景綱が預かった白石城の復元の機運が高まった。ドラマ放送翌年の1988年(昭和63年)、白石城三階櫓の復元が白石市の政策として挙げられた。
各地の城跡を廻ると徳川幕府の「一国一城の制度によりこの城は取り壊された」と云う情報にたびたび接してきた。ここは例外として幕府に認められたお城のようである。 しかし豊臣家が滅亡した大阪の陣で真田幸村の娘たちを景綱の長男の片倉重長が預かった事実を幕府が知れば、恐らくこの城の存続に影響したかもしれません。
1万8千石の小さな城であるが、ポイントはよく復元されていてこじんまりとした良いお城である。
天守, 復元
二の門、 復元
天守から見る
薬師温泉
グ-グルマップで反対方向へ行ってしまったようで、尋ねてやっとたどり着いた。 現在はホテルの営業より福祉・リハビリ・介護の業務が主力のように感じられた。
白石川の対岸にある薬師温泉
2025-7-19
東北 城めぐり まとめ、 1. 仙台城
東北諸城
2025年のクル-ジングをそっち除けで東北の諸城を電車で巡ってきた。 個人的な趣味で観光地といえば歴史的なものになってしまい、結局は城廻となった。
これらは「もののあわれ」が漂い一抹の寂しさを感じるお城ばかりのようである。 かっては100万石の大藩が厳封が続き万石の藩になってしまったもの、敗れて取り潰しにあったものなど散見される。 詳細は順次挙げていきます。 クリックでご覧いただけます。
1. 仙台城
2. 山形城
3. 米沢城
4. 福島城
5. 会津若松城
6. 二本松城
7. 白河小峰城
8 .いわき平城
9. 亘理要害城、 小堤城
10. 相馬城
11. 多賀城
12. 船岡・要害城
13. 村田城
14. 岩沼要害鵜ヶ崎城
15. 十文字城
2025-11-14
1. 仙台城・青葉城
順路
7月と9月の2回に渡って仙台城を訪ねた。 前回は仙台駅バスタ-ミナルより巡回バス「る-ぷる」号にて本丸詰門近くで下車して、見てきた。 その時は、便利ではあったが伊達政宗の騎馬像を見ただけの印象で物足りなさを感じた。 今回は地下鉄東西線に乗り大町西公園駅で下車。青葉川に架かる大橋を抜けて仙台博物館の前を通り、子門、3の丸土塁、魯迅の像を見て、巽門、清水門、沢門 を経て本丸へ。 詰門、政宗像、懸造、埋門、西門、中曲輪、大手門、2の丸から地下鉄国際センタ-駅から再び乗車して帰路についた。 壮大な石垣が見られて満足のいくものであった。
縄張り図
大橋
子門
3の丸土塁
魯迅像
中国革命の前に東北大学に留学していた
翼門
清水門
付近に湧水があり呼び寄せた御用の造り酒屋があった
沢門
大手門からの登城路と3の丸から清水門を抜けた所の合流地点にある
本丸北の石垣、 堂々とした石垣である
詰門
本丸入り口 バス停がある
本丸
伊達政宗の有名な騎馬像がある
懸造跡
本丸の一角に清水寺のような建物があり眼下の青葉川の風景を楽しんだと云う
詰門
本丸への山側からの搦手門のような気がします
西門
ここを過ぎると詰門に至り本丸を1周したことになる。 大手からの登城路を下ると中門に着く
中門
大手門
大手門の古写真
大橋から大手門への古写真
大手門を抜けると右側に2の丸があり、御殿があり政務を行っていた
2の丸
2の丸入り口には支倉常長の像がある。 大手門に下って地下鉄国際センタ-駅から帰途についた。 この駅からの方が公園駅よりお城には近く便利なようです。
2025-11-14
2. 山形城 ・ 霞城、霞ヶ城
仙台から山形へ
仙台から山形へはJR仙山線に乗った。 途中の愛子(あやし)までは通勤利用が多いようで便数が多い。山形へは時間に1本ほどである。東京近郊の人間には遠くは無くて地元から東京へ行く通勤の距離のような感じがした。
山形城へは線路わきに外堀が隣接しているので5分ほどの徒歩圏である。
城郭構造の基礎は、最上義光の時代につくられ、鳥居忠政の時代に現在の形に整えられたものである。江戸時代には山形藩の政庁が置かれた。現在は、武家屋敷群のあった三の丸が市街地化しているが、本丸、二の丸跡が霞城公園として残されている。
山形城の縄張り
駅の東口に出て3の丸土塁跡へ、3の丸は総構えというのか商人街を土塁と門で取り囲んでいる。今回は大きすぎて見られなかったがその跡がの残っているようだ。62万石の仙台城は城塞のようなものであるが、ここは57万石であるけれど全てを囲んだスゴイものになっている。
七日町の水の町屋 御殿堰を見て2の丸東大手門に至る。 二の丸南大手門、二の丸西不明門、二の丸北不明門と坤櫓・ひつじさるやぐら櫓、坤櫓・ひつじさるやぐら、艮櫓・うしとらやぐらを堀に沿って歩き本丸一文字門より本丸に入った。
3の丸土塁
七日町の水の町屋 御殿堰、 大きくはなく小さな一角である
二の丸東大手門橋
二の丸東大手門
二の丸南大手門
坤櫓・ひつじさるやぐら
二の丸西不明門
ここと北の2の丸門は名称が不明となっている。教育委員会は古文書を丹念に当たってみてくださいな。
二の丸北不明門
肴街向櫓・さかなまちむかいやぐら
艮櫓・うしとらやぐら
本丸一文字門
本丸御殿跡
本丸はこれから御殿の工事が行われるのか前なのか見るべきものがなかった。
本丸外側土塁と堀
屏風折れ土塀礎石
折れ曲がりが設置されており、この場所からは左右の敵をも攻撃することができます。より防御力を高めた土塀
最上 義光(もがみ よしあき)1546-1614
山形城で生まれる。伊達支配下にあった最上家を独立させる。山形を統一、いちはやく鉄砲軍団を組織する。 縁戚である伊達輝宗・政宗と争う。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、慶長出羽合戦にて上杉家の直江兼続を退け、一代にして14-15万石から57万石の版図を築いた。善光の亡きあと、最上家は最上騒動と呼ばれるお家騒動のため、武家諸法度違反により改易となった。近江大森藩にわずか1万石をもって転封となる。
2025-12-09
3. 米沢城
福島駅へは在来線で行った。米沢へ福島から行くには在来線の運行が極めて少ない、3-4時間待ちになるので、仕方なく山形新幹線に乗る。自由席は無いので指定席を購入した。 ちなみに、山形から米沢への在来線は、これに比べれば便数が多く、新幹線に乗らなくてよいようである。 それは同県内の移動になるので県境をまたぐ福島駅からとは時刻表に違いがあると想像された。 仙台からここへ来るのなら仙山線に乗り、山形で乗り換えて在来線で米沢へ来るのが良いでしょう。
城跡へは観光案内所でバス便を尋ねた。
つばさ号には自由席がない
バス停を降りて城横にある2の丸跡に上杉伯爵邸がある。 菱門橋は通行止めであった。
米沢城は鎌倉中期に長井氏が築く。その後伊達氏の本拠となり政宗もここで生まれた。政宗は小田原の参陣がおくれ、秀吉に岩出山城に移る。変わって蒲生氏がここを支配した。宇都宮に移封となったので上杉景勝が120万石で入封した。関ケ原の敗戦で減封されて30万石でここに居城した。維新まで続く。
縄張り図
上杉伯爵邸
菱門橋、 赤い欄干の橋
本丸西門、 北西の三階櫓の近く
上杉鷹山像
江戸時代の名君の上杉鷹山像
伊達政宗の誕生碑
舞鶴橋、 明治19年造、 登録有形文化財
弁天堂、 近くに上杉鷹山が隠居後に住んだ餐霞館がある。
2025-11-26
4. 福島城
福島市街図
JR福島駅から徒歩10分位の距離にあり、阿武隈 川沿いの県庁の位置にある。 お城らしいものは見当たらなかった。
案合図 赤の道路は奥州街道
本丸や2の丸は現在は大仏橋に続がる大道路になっており余り分からない状態であった。知事公館、紅葉山公園、県庁舎の部分を見た。大手門は駐車場と道路にあったようで、案内板は見当たらなかった。
蒲生氏や上杉氏の支城であったここは、1678年に福島藩が成立し,本多氏・1679-1682、堀田氏・1686-1700,の支配を経て板倉氏が3万石にて領し明治まで続いた。
本丸跡碑
紅葉山公園
城脇の阿武隈河
板倉神社
藩祖の板倉重昌が祀られている。彼は島原の乱で討ち死にした。
県知事公館
知事の公邸とはこういうもんなんだ、 初めて見た。
2026-1-9
5. 会津若松城 鶴ヶ城、黒川城、
会津若松地図
在来線にて福島で乗り換え郡山に着く、再び磐越西線に乗り換え会津若松に着いた。循環バスにて七日町経由で会津若松城を訪ねた。
代々蘆名氏の城であった。戦国時代中後期には、黒川城を中心に広大な版図を築いた。1589年(天正17年)、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼしここ黒川城を手にし、米沢城から本拠を移した。政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられ、米沢城に本拠を戻した。代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年)より近世城郭に改造し、城下町を整備した。氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封。上杉景勝が120万石で入封。1600年(慶長5年)、徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。翌1601年(慶長6年)には蒲生秀行が再び入城したが、1627年(寛永4年)、嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封。代わって伊予松山より加藤嘉明が入封。1643年(寛永20年)、加藤明成は改易され、出羽国山形より3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。
縄張り図
バスを降りて大手門を抜けて、北出丸にある武徳殿を経て本丸へ入る。西出丸を覗いて天守へ、廊下門を渡立って二の丸へ、南門を出て三の丸を通って帰る。
先に見た米沢城にくらべて城跡はよく残っている。 公園のように整備され過ぎずに良かった。
大手門、 桝形の案内板がある
北出丸と雁木
武徳殿, 剣道場のような内部
西出丸入り口 駐車場がある
天守, 1960年鉄筋コンクリート造により外観復興再建
表門, 奥御殿に通じる門
雁木
雁木という名称は湊にある船からの乗り降りに利用する階段状の構造物と思っていたが、お城にもあるんだ。 大河ドラマの八重が鉄砲を撃ちかかる元場面はここか又は北出丸の雁木であったのであろうか。
本丸廊下橋 二の丸へ至る
二の丸南門
帰りは循環バスにて会津武家屋敷を訪れて、白虎隊の愛人地をチラ見して駅に着き、今日はビジネスホテルに宿泊した。
会津武家屋敷
会津藩家老西郷頼母邸で幕末に焼失したものをこの地に再建したもの。 実際は上図のように家老ゆえにお城近くの北出丸に近いところに建てられていた。 図面が残っていたようで当事のままにここで再建されている。 上級武士ゆえに大きな敷地に建てられて藩主を迎える立派な部屋があった。
玄関
中庭
台所や使用人の部屋などよく残っており、当事のようすがしのばれるが、850円の入園料は個人的には高いような気がした。
2025-11-29
6. 二本松城 ・ 霞ヶ城
駅からの行程図
畠山氏(二本松氏と改)7代がこの城を築く。伊達政宗と攻防して二本松氏は滅ぶ。政宗は片倉景綱、次に伊達成実を二本松城代とした。秀吉により転封され会津若松城主蒲生氏郷の支城となった。氏郷の子秀行が秀吉の命令で転封、代わって上杉景勝が会津に入ると城代は再度交代し下条忠親が城代となった。徳川家康に敵対した景勝は関ヶ原の戦いの後に米沢城に移された。会津には蒲生秀行が復帰。秀行の嫡男忠郷が跡継ぎの無いまま死亡、次男の忠知が伊予松山城に転封となり、会津に忠知と入れ替わりに加藤嘉明が入る。加藤氏も改易となり、白河小峰城より丹羽長秀の孫・光重が10万700石で入城し明治まで続く。
二本松城を望む
二本松城図
箕輪門
箕輪門前の二本松少年隊群像
戊辰戦争で亡くなった少年隊の碑、 会津白虎隊の悲劇ばかりではない。
本丸
搦手門
安達太良山
『智恵子抄』で高村光太郎が詠ったように本丸から安達太良山が望める。 二本松には智恵子の生家があるけれど訪ねなかった。
丹羽氏は100万石を越える大大名になった。本能寺の変の時には大阪に四国攻めのために滞陣していた。1万5千の兵を持ちながら統率力の不足であろうか、兵が逃げてしまう。 秀吉の天下取りには協力するが疎まれていて長秀の死後には減封になり所領が無くなるまで落ちぶれる。その後少し回復して10万石の大名になり幕末まで存続した。
丹羽長秀
1550 織田信長に仕える
1571 佐和山城主となる
1573 若狭一国を得て織田家最初の国持大名になる
1581 京都馬揃えで1番に入城、 柴田勝家に次ぐ二番家老になる
1582 織田信孝の四国攻めの副将となる,本能寺の変、 山秋の戦いに参戦、清須会議
1583 賤ヶ岳の戦い、戦後に越前国・若狭国・加賀国2郡の123万石を与えられて大大名となった。
1585 死去
長秀が没すると、長男丹羽長重が後を継ぐ、軍率違反で15万石、4万石�に減封。小田原征伐12万5千石に加増、関ケ原で西軍に属し没収。1万石に加増、そのご加増されて白川藩主10万7千石。二本松に転封となり明治まで続く。
2025-11-16
7. 白河小峰城
白河小峰城は駅を降りてすぐ近くである。小峰城の成立は、1340~1369の頃、白河庄を治めていた結城宗広(ゆうきむねひろ)の嫡男親朝(ちかとも)(別家小峰家を興す)が築いたことに始まるとされる。
結城氏の本拠は、小峰城より東へ約3キロメートルの所に位置する白川城であったが、結城氏一族の内紛のあった永正年間(1504~1520)以降には、本拠が小峰城に移ったと推定されている。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかった結城氏は、秀吉の奥羽仕置で改易となり、以後37年間にわたり小峰城は会津の支城となる。蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行と領主が変わるなか、白河には城代が置かれた。蒲生秀行時代と考えられる慶長年間の城絵図を見ると、城郭や城下の整備も行われ、梯郭式平山城としての縄張りや城下の原型はできあがっていた。
寛永4年(1627)に初代白河藩主となった丹羽長重は、城郭の大改修を行った。およそ4年の歳月をかけて寛永9年(1632)に完成した姿は、本丸・二之丸を総石垣で固め、三之丸においても門周辺部には石垣積みとした梯郭式の平山城で、随所に石垣を多用した。
木造で復元されて戦後の城復元のモデルとなる。 規模は大きくないけれどまとまった見がいのあるオススメのお城であった。
藤門
木造で復元された三重櫓と前御門
1991年に本丸御三階櫓が木造により復元された。
搦手門
櫻門
帯曲輪門
再建中の清水門
2022-11-20
8. いわき平城
お城とJR路線図
磐越東線の列車
会津若松からの帰りに磐越西線で郡山にて乗り換えて磐越東線にてJRいわき駅に着く。 ここから常磐線に乗りヨットを係留している亘理駅に向った。 常磐線は極めて本数が少なく2時ごろいわきを出たが日が落ちて暗くなるまで時間を要した。
いわき平城
JRいわき駅を降りるとすぐ裏手の山という感じでいわき平城はある。 あいにく工事中で本丸跡には行くことができなかった。
1603年に鳥居元忠の子初代磐城平藩主の鳥居忠政が10万石で築城した磐城平城の跡。本丸を囲んだ石垣と旧仮藩庁が残される。・元和8年(1622年)鳥居氏が出羽国山形に転封。
・元和8年(1622年)上総国佐貫より内藤政長が七万石で入封、延享4年(1747年)日向国延岡城に転封。
・延享4年(1747年)常陸国笠間より井上正経が六万石で入封、宝暦6年(1756年)大坂城代として転封。
・宝暦6年(1756年)美濃国加納から安藤信成が五万石で入封、以後明治に至る。
いわ城絵図
本丸 工事中
2の丸跡碑
塗師櫓石垣
丹後沢公園
本丸と2の丸。3の丸の間の内堀
2026-1-11
14.. 岩沼要害・鵜ヶ崎城、 亀塚温泉
岩沼周辺図
JR岩沼駅は東北本線と常磐線の分岐駅である。 仙台―岩沼間は時間に3本程度の運行がある。常磐線は原ノ町までは1本しかありません。
岩沼要害城や亀塚温泉へは徒歩5分程度で行くことが出来る。
縄張り図 よくわからない?
岩沼城(岩沼要害),別名・鵜ケ崎城の城下町であり,奥州街道と江戸浜街道の分岐点に当たる宿場町としても栄えていた。しかも,3万石の大名の居城となったこともある。
鵜ヶ崎城碑
本丸?と思われる小高い丘にある鵜ヶ崎城碑、鵜ヶ崎城(岩沼要害城)本丸など城郭の中枢部分は現在、岩沼駅周辺で、駅開設や宅地開発が進むと、堀は埋め立てられ土塁などの高所は削られ、ほとんど原型をとどめていないと云う。
鵜ヶ崎公園の入り口
亀塚温泉
線路わきに老人福祉センタ-と併設された天然温泉があり、そこで日帰り入浴して今日1日に疲れを癒した。
2025-12-23
9. 亘理要害城・臥牛城、 小堤城、 太雄寺、 称念寺
亘理城 近辺図
JR亘理駅より徒歩15分くらいで亘理・要害城へ行くことができる。2の丸跡にス-パ-がありここを目指して歩く。
伊達稙宗の十二男で亘理氏に養子に入った亘理元宗が築き、亘理氏の居城を小堤城(現在の大雄寺付近)から移した。その後に片倉景綱が城主となった。慶長7年(1602年)、片倉景綱は白石城に移り、伊達成実が城主となった。一国一城令の後、亘理城は亘理要害といわれるようになった。幕末まで亘理伊達氏が城主として続いた。戊辰戦争に敗れた仙台藩の降伏式はこの地で行われた。明治3年(1870年)、亘理伊達氏の北海道移住に伴い建物などは払い下げられた。
南からの伊達藩への侵攻路は奥州街道からのを白石城にて防ぐことと、太平洋側の浜街道からのを亘理城で防ぐことであった。それゆえに大事な家臣をそこに配置した。
案内図
本丸の亘理神社にある本丸表示石柱
戊辰戦争で敗れた伊達藩はここで新政府と降伏式が行われた。
堀跡
お城らしいものが見られるのは本丸南のこのあたりのみである
大手先の石碑から見た切り通し。道路によって分断されていますが、左が本丸、右が二の丸(ス-パ-あり)
切り通しの右側、ス-パ-の看板あたりが本丸詰門跡
亘理城から南下して徒歩10分位で稱名寺と亘理城下地図碑を見てきました。
称名寺
源頼朝を支えた千葉常胤の子孫、武石宗胤(後に亘理氏と改称)が建立した
そこに隣接して亘理城下地図碑がある。
亘理城下地図碑
伊達成実1568-1646
伊達成実
父は伊達実元、母は実元の異母兄・伊達晴宗の娘。政宗にとっては最も近い血族. 人取橋の戦い成実は政宗の命を救った「伊達家一の猛将」と称され、翌年には二本松城主となり38,000石へ加増された。 郡山合戦,摺上原の戦いにて活躍。 政宗が豊臣臣下になると、成実は二本松城主から角田城主に移封となった。 文禄の役(朝鮮出兵)にも参戦して活躍。 豊臣秀次が切腹させられる事件が起きた。この前後に成実は伊達家を出奔して突然高野山に向かった。 北の関ヶ原こと「慶長出羽合戦」が始まった。片倉小十郎らの働きかけで、成実は戻って来た。(1602年)成実は亘理城主となって政宗から5,095石を拝領して「伊達家の南の要」として重臣に復帰する。大阪の陣にも参戦。治水に尽力し、5,095石だった石高を23,000石にする。伊達政宗の9男を迎い入れて後継者とした。
小堤城
ここへは亘理城から徒歩15分ほどでいくことができる。 大雄寺の門前に標柱があり、墓地の周辺に土塁が残ります。亘理伊達家の霊廟がある。
小堤城は亘理氏の最初の居城です。千葉常胤の子孫である武石宗胤がこの地を支配すると、7代・武石広胤の代に亘理氏を名乗っています。亘理氏は戦国時代には伊達氏に重臣として仕え、元宗・重宗父子の代に亘理城を築いて居城を移すと、廃城となりました。
大雄寺 山門
土塁跡
亘理伊達家の霊廟
2025-12-21
11. 多賀城
多賀城跡の周辺図
JR仙石線の本塩釜からタクシ-で多賀城跡を訪れて、帰りはJR仙石東北ラインの国府多賀城駅より仙台へ帰った。国府多賀城駅より徒歩で10分位の距離で多賀城へ行くことが出来る。 利府駅で終点止まりのJR東北線もあり3線が運行しているので注意を要する。
多賀城は神亀(じんき)元年(724年)に大野東人(おおののあずまひと)によって創建され、陸奥国府(むつこくふ)と鎮守府(ちんじゅふ)が置かれました。 約900メートル四方という広大な城内の中央には、重要な政務や儀式を行う政庁があった。多賀城が最も栄えた8世紀後半の12棟ほどの建物や門を全て復元する方針があるという。 後で見てみたい。
お城と云えば戦国時代のものが多くなり、小生としても奈良時代のものを見たのは数少ない。 教科書に載っていて既知であるるけれど実際に見る尾は珍しい。
多賀城と主要な城柵・官衛
案内図
復元 外郭南門
国宝 多賀城碑
小さな堂の中に立っている。松尾芭蕉も旅の途中にこの碑を訪れ、深い感動をもって対面した様子が「おくのほそ道」に記されている。 日本三古碑のひとつに数えられており、令和6年8月27日に国宝(古文書)に指定された。
南大路
遺跡を横断して道路があり、その向こうに大路が見える
大路の排水施設
城前官衛主屋の構造復元
城前官衛復元イメ-ジ
政庁南門跡
政庁正殿跡
政庁東北殿跡
平安時代の石畳道路
外郭東門跡の碑
平安時代の北門櫓跡
2025-12-27
10. 相馬城・ 中村城
相馬と松川浦
常磐線で相馬駅に降りて徒歩15分程度で相馬中村城へ行くことができる。 仙台から原ノ町までのJRの運転間隔は時間に1本であるので注意を要する。 ちなみにヨットを係留している亘理から、この相馬で特急に乗り上野で乗り換えて自宅に帰った。仙台からの新幹線ではなく一度、常磐線の特急に乗ってみたかったからである。
平安時代初期に奥州鎮撫のため坂上田村麻呂が最初に築いたとされる。 南北朝時代の1337年には、周辺を配下とした中村朝高がこの地に「中村館」を構えた。以後、戦国時代初期まで中村氏の支配が続いた。 中村氏に代わって1563年に相馬隆胤が入城した。 相馬氏は本城である小高城に加えて、この中村城に城代を置いて伊達氏と睨み合った。 関ヶ原の戦いから11年後の1611年、盛胤の孫である利胤は、本城を小高城から中村城に完全移転し、中村城は中村藩6万石となった。同年、利胤はただちに近世城郭への改修を開始し、梯郭式の城郭が完成、本丸四櫓と称される櫓門形式の前門及び搦手(からめて)門・北隅櫓・天守が設けられた。しかし、1670年には落雷により天守を焼失したが、時の4代藩主貞胤は藩政を優先し天守再建は為されなかった。
縄張り図
伊達氏を意識して北側の堀が強固になっている。本丸を囲んで2の丸と3の丸があり堀も含めて堅固な城構えである。想像以上に残っているので丹念に見ることができれば面白いと思われる。
相馬の馬追いのお祭りはテレビで見られるので承知である。 その場所は原町に所在する雲雀ヶ原祭場地において行われるようで、この城内ではないようだ。
大手一ノ門
中ノ門
本丸へ行く赤橋
南二の丸
1833年からはじまった天保の大飢饉で、藩の存続自体が危うくなるほどの壊滅的なダメージを受けた。このとき、表高では6万石とされた相馬藩の収入は、わずか457石にすぎなかったと伝えられている。1845年、農政改革や質素・倹約、協働、互助、譲り合いなどを思想的な軸とする、二宮尊徳が唱えていた「二宮仕法」の本格的な導入を決定している。これにより、中村藩とその藩民の窮状は幕末に向けて急速に回復していき、「二宮仕法」は廃藩置県後の明治期までつづけられることになった。
東2の丸, 二宮尊徳像
本丸には相馬神社がある。
本丸
搦手門、 黒橋
北3の丸
中堀石組跡
2025-12-7
12 船岡・要害城 ・ 柴田城・四保館
船岡城・要害の周辺図
村田・蔵の街の帰りにバスにて大河原下車、タクシ-で船岡・要害城へむかう。ここらの白石川の岸辺の(櫻の名所100選)千本櫻は有名である。帰りは近くのJR船岡駅より帰った。
案内図
大河原盆地にある船岡城は仙台や山形へ至る街道と白石川から阿武隈川を利用する水運の要地にある。城跡は小高い山に公園になっている。小規模なスロ-プカ-もあるが運休中であった。本丸部分に観音像があるが、俗っぽいので行く気がしなかった。
鎌倉初期に芝田氏に造られたという。その後戦国期に伊達氏が改めて築城。中世は要害堅固な山城でしたが近世に入ると一国一城令が出され船岡城も形式上は城郭とは認められず仙台藩(藩庁:仙台城)の行政区の一つ「要害」に区分けされる事になります。
伊達騒動で城主だった原田氏が改易されて城は破却された。 城下町に近い三の丸に領主の居館や政庁が移される事になった。
縄張り図
3の丸跡
二の丸跡・絹引の井戸
2025-12-19
13. 村田城
15. 十文字城・館
亘理周辺図
「ぶらわたり」の散歩中に十文字城跡を見つけた。
十文字館・城跡碑
旧逢隈村(現亘理町)に十文字という集落があり、現在十文字神社が建つ東側の水田地帯の一画に十文字館があった。嵯峨天皇の子、源綱安が源義経に仕え、衣川の戦に敗れたのちにこの地で城を築き十文字氏を称しました。十文字氏は後に亘理氏(武石)や相馬氏に仕えるも、天正十三年(1585)政安の代に伊達政宗に滅され、遠田郡に移住して亘理氏の家臣となる。
十文字神社
2026-1-19
仙台藩の要害城
ヨットで城めぐりをしていて、徳川の時代になっての一国一城で廃城になった城跡に出会うことがある。かって 薩摩の麓武家屋敷という事での12の支城を廻ったこともあり。 伊達藩も同様に幕府に支城群を黙認されていたのでしょうか。
仙台藩には、仙台城をはじめとするいくつかの城と、21の要害と呼ばれる重要な拠点が存在しました。江戸時代の「一国一城令」により、原則として各藩は一つの城しか持てませんでしたが、仙台藩は例外として白石城を保有し、さらに要害を持つことが許されていました。これらの要害は、伊達家の支城制の一環として幕末まで存在し、重要な防衛拠点として機能していました。
伊達21要害
赤地は要害城、 青字は他藩
南部の要害詳細
1. 岩谷堂要害(江刺郡)
2. 人首要害(江刺郡)
3. 上口内要害・浮牛城(江刺郡・北上市)
4. 金ヶ崎要害(胆沢郡)
5. 水沢要害(胆沢郡)
6. 高清水要害(栗原郡)
7. 宮沢要害(栗原郡)
8. 佐沼要害(登米郡)
9. 岩出山要害(玉造郡)
10. 登米要害(登米郡)
11. 涌谷要害(遠田郡)
12. 不動堂要害(遠田郡)
13. 岩沼要害(名取郡)-岩沼藩
14. 船岡要害(柴田郡)
15. 川崎要害(柴田郡)
16. 角田要害(伊具郡)
17. 金山要害(伊具郡)
18. 平沢要害(刈田郡)
19. 亘理要害(亘理郡)
20. 坂元要害(亘理郡)
21. 新地要害(宇多郡)
一関要害(磐井郡)一関藩(のちに城主格大名となる)。伊達21要害には含まれない。
伊達21要害 攻城団のサイトより
2025-12-16