熊本の城 まとめ
長崎城 まとめ
国府尾城 (こうのじょう)
一乗谷 朝倉氏遺跡
黒岩城、本山城、泰ノ山城、熊磯城、九多児城 、 忽那水軍の城
鹿児島の城
薩摩の城 麓武家屋敷 まとめ
鹿児島の城地図
1. 鹿児島城・鶴丸城
2. 清色城
3. 伊作城
4. 喜入城
5. 桜之城
6. 亀城 上甑
7. 平佐城
8. 碇山城
9. 志布志城・内城
10. 串木野城
11. 一宇治城
12. 市来鶴丸城
13. 知覧城
14. 蒲生城
15. 垂水城
16. 加世田城・別府城
17. 出水城・亀ヶ城
2023-8-5
本太城(もとぶとじょう)
児島周辺図
児島と云っても、それどこ?と聞かれる。 小生のような古い世代には児島の干拓の名前には義務教育で習った記憶があるので、その内容はとっくに忘れても児島は聞き覚えがある。 児島市と水島市は倉敷と合併して現在の児島は倉敷市の一部です。 瀬戸大橋の本土部分の接続地点でもある。
児島は昔は島であった。本土とは藤戸の鳴門といわれる海峡で隔てられていた。 本太城は児島西岸にある本太岬の要害にあり、北に本太湊を備えた山城と海城の複合城郭であったという。
永禄11年・1568にこの城で能島村上水軍の村上武吉の家臣島吉利(しまよりとし)・と讃岐の香西氏が争った。村上が勝ってこの城を奪う。しかし今度は三好氏の後援を受けた香西氏の反撃を受け大友氏の仲介で和睦した。能島村上氏は豊後の大友氏と組み反毛利となったので、小早川隆景により落城した。天正8年1580まで存在したがその後は不明である。
案内石碑
Googl mapはまだ習得していないが、この時は成功した。 児島駅より倉敷行きの下電バスに乗った(2系統の倉敷行きがあるので水島に寄るバスに乗る)。 車内でスマホのマップで太本城をクリックして特定し、バスの運行にあわせて現在地の表示がその位置に接近したところで停車ボタンを押し下車した。 ほどなく案内の石碑を見つけた。
この武家屋敷風の建物の上の山が太本城
一帯が公園になっており遊歩道を上がっていく。 本丸を囲む低石垣があった。
本丸を囲む石垣
山頂には天満宮がある。 この階段は利用しなかった。
海側の崖を望むとすぐ近くに水島工業地帯の工場がある。操業している音がまじかに聞こえる。事故で爆発したら危ういなあと思いながら散策した。
水島の工場群
2020-12-11
国府尾城 (こうのじょう)
島後 隠岐の島町、 国府尾城と後醍醐天皇行在所跡・隠岐国分寺
何も予備知識がないまま、レンタサイクルで西郷湾の西郷大橋付近で,通りすがり偶然に国府尾城跡案内板を見つけた。 国府尾神社の裏山にその城は位置する。
後知恵ですが、この城は隠岐一国を統一した隠岐清政(宗清)によって築かれた。清政は尼子氏の力を借りて統一。後に毛利氏に攻められて吉川氏の傘下となる。 江戸時代には堀尾氏の支配となるが、一国一城の令により廃城となる。
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国府尾神社・城 登り口
国府尾城地図
階段を何か所か登っていくと国府尾神社にいたる。 ここは2の丸か本丸かは不明である。 さらに奥の細い道を進むと井戸や堀切が見られた。
国府尾神社
井戸跡
堀切
2022-8-31
下津井城
下津井地図 下は下津井瀬戸
JR児島駅からバスに乗り下津井に行く。 瀬戸大橋が出来た時にその予算で瀬戸大橋架橋記念公園ができる。公園内というか隣接して下津井城跡がある。
そこは眼下に下津井瀬戸をのぞみ、その瀬戸は10ノットの急流速になるという。近くの島塩飽海賊の根拠地・本島もあり、瀬戸内の海上交通の要衛である。 ここは宇喜多秀家が築城した、関ケ原後に岡山・池田藩の支城として現在のように改修された。 一国一城の令により廃城となる。 西の丸、二の丸、本丸、3の丸、中の丸、東の丸と配置され、天守があった。 石垣が残っていてその規模が知られる。
下津井城図
三の丸
二の丸
天守跡
西の丸
中出丸
二の丸下南面の石垣
下津井は現在は瀬戸大橋の本州側の一端である。城跡からは橋や島々の景色が良い。
城跡から眼下を望む
2019-12-7
福田城
福田城と丸木館
天正3・1575 福田大和守が築いたとされる。 ここは1565-70まで南蛮貿易の港として開かれた港であるから、ポルトガル人が長崎に移ってから築城されたのか。 福田氏は大村氏の重臣である。 麓にある丸木館を居館としていた。
丸木館跡
ここ福田は長崎市の一部です。観光案内所も無く、市の案内表示も充実していない。長崎に移る5年もの間に南蛮貿易の港であったのであるから、もう少し市は力をいれてもよいのではないかと思う。
小中学生が作ったと思われる案内板
この案内板で丸木館跡を地元の人に尋ねた。
福田城 福田港北 71m
登り口 山頂には祐徳稲荷神社
案内板
このすぐ上が主郭
田子島台場 福田にある幕末の台場
2023-7-3
上関城
上関城、番所跡、茶屋跡、 赤丸はヨット係留地
上関は九州へ行くのによく使う中継地である。 弓削がヨットの聖地と人気になっていたが、ここにポンツ-ンが整備されて利用しやすくなり、今では弓削を抜いて上関が一歩リ-ドしたようである。 夕方近くのここへの入港では、係留余地がない可能性がでてきたので、昼頃の入港を考えるようになった。
今までの訪問で四海楼、御茶屋跡、番所跡、台場跡などを見てきた。今回は上関城へ行くことにした。
上関城
能島村上氏の村上吉豊によって築城された。村上義顕(よしあき)が、この地に海関を設け、代々居城しました。帆別銭をめぐる争いで陶氏と戦いがあった。秀吉の海賊禁止令により廃城になったと推定される。
模擬の見張り櫓と冠木門をみることができる。 遺構は見当たらない。
案内板
模擬物見櫓
模擬冠木門
2022-9-1
島原城と武家屋敷
口之津からバスにて島原城と日野江城を見て来た。 ヨットで行くつもりでもあったが、適当な停泊場所がないので取りやめる。島原の武家屋敷やどちらの城も想像以上で満足のゆくものであった。
島原城
行く途中のバスの中で、あの普賢岳、今でも思い出す火砕流の滑り落ちて迫る映像のそれに近いので驚く。 島原駅の正面で坂を上ったすぐ近くに島原城はある。
1616年に大和から転封した松倉重政が日野江城から移ってこの城を築いた。 五層の天守と三層の櫓3つを持つ7当時4万石の大名にしては大きな城である。 過大な出費のため苛政をし、そのため天草の乱の原因を作った。 松倉氏は断絶し、その後には譜代の大名が続いた。
縄張り図
島原城
天守 残念なことにコンクリートによる復元である。 中は資料館になっている。
本丸へ
島原武家屋敷
築城の時に70石以下の武士のために城の西側に武家屋敷が整備された。 鉄炮町とも呼ばれそれで戦う徒の住居である。 役所の書記、代官、門の警備などに平時は従事した。
下の丁、中の丁、古丁の3筋から、上新丁、下新丁、新建、江戸丁が追加してつくられた。 今の武家屋敷通りは下の丁にあたる。山本邸、篠塚邸、島田邸を見ることができる。
下の丁、 中央に水路が生活用水として利用された
山本邸
山本邸 座敷
山本邸 台所
2023-7-25
熊本城・震災復旧工事中
台風の発生と鹿児島の梅雨入りなので、ヨットの南下クル-ズを断念した。 6月17日に長崎からJRで熊本に行き、熊本城を見に行く。 20日に「元太鼓櫓」が倒壊したとの報道がありました。 城内にはまだ見学に入ることができず、周りから眺めるだけの現況になっています。 加藤神社から天守の工事の様子がよく見えた。
石垣の高さといい、本丸以外の櫓にも他城では5層の本丸かと思えるようなものがありその城規模と造りには驚かされた。現存する宇土櫓の他に5基の五階櫓があったという。
その堅城ぶりは他には大阪城しかないように思われる。復旧に何年かかるかわからないけれど終えた時には再訪したいものである。
宇土櫓
以下震災被害の写真です。
戌亥櫓
今度崩れた元太鼓櫓・西大手門
飯田丸3階櫓
未申櫓
北十八間櫓
長塀 西南戦争で活躍した塀が崩壊していた
2018-7-3
蒲生 麓武家屋敷、 蒲生城
鹿児島中央駅よりバスにて姶良市役所蒲生支所のバス停で下りて蒲生麓武家屋敷へ行って来た。 麓武家屋敷に必ずあるというよりお城があってこその家臣の武家屋敷であるのですが、
武家屋敷散策後に蒲生城を訪ねたが、 登城口が見つからず、断念してしまった。 指宿からはるばるの鹿児島南から北への渡来であったので意気が上がらなかったのでしょう。 いつもの小生の追及の甘さの欠点がでてしまった。反省。
ここは蒲生川と別府川の2本に挟まれて、9本の馬場と3本の小路にて区切られた町割りです。
町割りと馬場通り
仮屋門
西馬場
武家門
蒲生城 (竜ヶ城)
後で分かったのであるが公園として良く整備されているようで、お城ファンとしては残念な思いである。
蒲生氏が代々居城としていた。島津義久がここを落として領した。 本丸、2の丸、3の丸の他に曲輪群で構成されたお城である。
蒲生城
お城登山口 藪こきを予想され断念した
今後ここを訪れたい人のために 蒲生城 城郭放浪記
https://www.hb.pei.jp/shiro/ohsumi/kamou-jyo/thumb/
2033-8-16
福井城 と 北の庄城
北の庄城
信長から越前を任された柴田勝家が1575年北の庄城を築く。 ここは九層の天守を持つが七層の安土城をしのぐ天守であったという。 1583年の賤ヶ岳の合戦に敗れた勝家は3000の兵とともにここにこもり、秀吉に敗れてお市の方と勝家は自害した。
現在は勝家神社の周辺に石垣が残り、面影はない。 小さな資料館があるが開館前の時間(0900)であったので見ていない。
九層の天守
北の庄城 石垣
柴田神社 本丸があったという
前田利家は信長から配備された柴田勝家の寄騎の武将であった。勝家が秀吉と対立するようになると微妙な立場に置かれる。利家が秀吉の側に付いたのは知っていたが細目は自分には不明であった。 ここでの説明書板を読んでいていて分かる。 賤ケ岳の戦いに敗れた柴田勝家は敗走していた身でありながら、利家に秀吉に加わるように促したということであった。
福井城
ここは北の庄城の遺構を大きく改変して、一六〇一年から家康の次男で豊臣に養子に行き結城家を継いだ結城秀康が築城した。
福井城と北の庄城 周辺
残念ながら、堀は二の丸と三の丸が市街地になり消滅し、本丸の周辺にのみ残っている。 本丸には現在の権威の象徴である県庁ビルが建っている。 天守台には四重五層の天守があったが1669年に焼失した。
ご廊下橋
天守跡
本丸より内堀を望む
結城秀康 1574-1607
家康の次男で秀吉の養子となり秀康という名は家康と秀吉の名よりなる、その後に結城氏の養子となった。
結城秀康
詳しくは、 誕生しても正室の築山殿に認知されずにいた。 築山殿の死後認知される。 長男信康の切腹後には弟・秀忠が後継とされた。 小牧長久手戦いの和平の条件として秀吉のもとへ人質・養子として送られる。 1584年河内の国1万石を与えられる。九州征伐で軍功をあげる。小田原征伐後に結城家に養子に行き10万石を得た。関ケ原の際には上杉の備えとして宇都宮に留まる。越前北の庄を賜り68万石を得る。
2024-4-4
金沢城
金沢 有名観光地
縄張り図
能登地震から3か月余りであるが、金沢市内にはその影響を感じるところが少なかった。金沢城も普段どおりに見ることができる。
天正8年(1580年)、柴田勝家が、それまで当地にあった金沢御堂城(かなざわみどう)を攻略し、佐久間盛政が初めて金沢城主となり城郭整備に着手しました。賤ヶ岳の合戦後、前田利家が金沢城主となり、3代藩主利常(としつね)による寛永8年(1631年)の大火後の造営で現在の城の縄張りがほぼ定まり、約300年間にわたって百万石余を領した前田家歴代の居城として継続しました。
金沢駅よりバスにて、お堀通り石川門下にある金沢城公園口で下車。 すぐ前田利家の銅像がありその小路に沿って大手門にむかう。
大手門
大手門から河北門を通って三の丸に至る。
河北門
五十間長屋
おなじみの三の丸から見た五十間長屋の写真をご存じの方は多いと思われる。この堅固で長い上下2段の防備を見ると、ただならざるお城構えであると、誰しも感じるでしょう。 橋爪門から二の丸に入りその五十間長屋の内部を見学することができる。そこと兼六園は70歳以上は無料となる。 なお、二の丸御殿の復元計画がある。
菱櫓 五十間長屋に続く菱櫓
橋爪門
三〇間長屋 重文
本丸はうっそうとした林で1602年に焼失した天守跡の案内は見つけられなかった。
本丸にある戌亥櫓跡
鶴丸倉庫 重文
兼六園に続がる搦手として石川門がある
石川門 重文
2024-4-7
一乗谷 朝倉氏遺跡
永平寺よりバスにて一乗谷・復元町まで行く。 谷あいの川を挟んだ狭い地域に朝倉氏が住んだ。 復元の街並みを見ることができる。 当日は鉄砲隊の実演があり。谷間に銃撃音が予想外に大きく響いた。
福井駅、 永平寺、 一乗谷
現地を訪れてみると南北に城戸をもうけるだけでは不安がある。朝倉館もすぐ横が山であるここから攻めてきたらどうするのだろうか? 実際は安心して住んできたのであるから、統治が安定していたか、他の防備を考えてきたかのいずれかであろう。 実際には、北東の低い場所には小見放城という出城が築かれ、馬出しなどが設けられていた。なお、一乗谷の周辺の山峰にも、西に槙山城、北に成願寺城、南に三峰城などの出城が築かれていた。 下図のように東西南北に出城があった。 それらはクマが出るような環境であるから見るのは大変である。
柴田勝家の北の庄城でも云えるのであるが、大きな野戦で敗北してしまうと、ここも信長から守るのは難しかった。 ここは芭蕉ではないが「兵どもの夢の跡」という気持ちがしないでもない。
一乗谷城の周辺出城
一乗谷川の両岸に朝倉氏の遺跡がある
朝倉館跡 この敷地に庭園跡もある
復元城下町
火縄銃の発砲実演
2024-4-16
丸岡城 ・霞ヶ城 重文
福井駅よりバスにて丸岡城へ行く。 他に永平寺よりここを経由して芦原温泉へ行くバス便もある。
福井から芦原温泉へ
この城は現存12天守の城のひとつである。 1576年に柴田勝家の甥である勝豊により築城された。
縄張り図
天守は古いままだが、五角形の内堀は埋められているので、内堀を復元する計画があがっているようだ。 不明門、内長畝口門、大手門、搦手門、櫓、二の丸御殿の木造復元計画と内堀の復元計画もある。
4万石程度規模のお城が完璧に残っていると見ごたえがあるのですが、残念ながら存在しない。 少しでも縄張りのごとく復元できると良いように思える。
天守
入り口の階段も内部の階段も急で、昔がそうであったので仕方がないけれど、手で支えられる柵やレールが安全のため欲しい。足腰の弱い老人であるがゆえに。
城内部
歴代領主の10代目有馬清純から有馬氏になり明治まで続く。 清純はキリシタン大名であった有馬晴信の曾孫であることから、お城近くの圓光寺境内にキリシタン灯籠がある。 川沿いの道路わきの寺の奥にあった。
キリシタン灯籠
2024-4-9
国分山城 ・唐子山城
前日に59番国分寺に行って来た。天候待ちで今治の停泊が延びたので、今回の巡航で封印していた城廻りを解き、国分山城に行く。
今治からバスで国分寺下車そこから徒歩15分位で行ける。この地は古くは国分寺があった地なので栄えていたであろうと思われるが、今は今治へ移ったのであろう、それを感じさせる面影は見受けられない。
国分山城は藤堂高虎が今治城の築城の際にここの資材を持ち去ったので、石垣などは確認できなかった。
唐子山 105m
遊歩道を登ると城跡へ
山頂にある案内板
otaketamaさんからお借りしました。詳しくは下記をごらんください
http://otakeya.in.coocan.jp/ehime/imabarisi02.htm
山頂
主な城主は河野氏、小早川氏、福島正則、池田秀氏、小川祐忠、藤堂高虎
村上武吉が居城していたと云うから、海賊城としての眺望は良い
2024-7-8
黒岩城、本山城、泰ノ山城、熊磯城、九多児城 、 黒岩城、本山城、泰ノ山城、熊磯城、九多児城
松山堀江海の駅から次の荒天を避けるため予定外の中島へ行きました。ちょうど柑橘類の受粉の時期であったのか、島中にミカンのような匂いが漂って化粧水に浸っているような気分であった。
城廻の気分が沸き起こり、レンタサイクルにて島の城跡を見てきました。そこは忽那水軍に関するお城であったようです。
中島周辺の城
黒岩城
さすがに水軍城のひとつ、城跡から大浦湾が望め見晴らしがよい位置にある。
黒岩城
案合板
中島・大浦港を望む
本山城
中島・小浜の大串海岸に面した標高106mの本山山頂に築かれた城跡です。
文治3年(1187年)、忽那兼平が水軍活動の根拠地として、初めて築いた城である。 東は睦月島に相対し松山の北条を見通す、西は長師、神ノ浦を眼下にし、怒和島、津和地島や広島湾を見通す、南は興居島、伊予灘、九州航路を見通す位置であった。
豊臣秀吉の四国攻略で、天正13年(1585年)、小早川軍が来襲し、落城した。
案内板
麓の公園和気まで行ったが登り口も分からず、整備もされていないようなので諦めて引き返した。
忽那水軍 マップ
忽那氏五代の兼平は3代将軍の源実朝によって、地頭職に補任されて鎌倉幕府政所の水軍となる。文辞3・1187年幕府の命で忽那島・中島に二城・本山城・泰ノ山城を築いた。
泰ノ山城
文治5年・1189年に築城。泰ノ山は高さ289mで付近の忽那七島を一望する。北に安芸灘越に安芸の島々を見、広島を見通す。伊予・周防・安芸をまたぎする瀬戸内水運の関となり、西瀬戸の制海権を掌握する位置になる。 南北朝時代には瀬戸内最強の水軍になる。
今回は訪ねることが出来なかった。 忽那水軍は中島に荒天避難のために予定外の停泊をするまで、ノーマークであった。本も2冊手に入れたので読んで機会があれば再訪したいものです。
熊磯城
岬の鼻にある小島に熊磯城はあった。 干潮の時は繋がって渡れるようであるが、当時もこの小さな面積では小さな砦、否、見張り所のようなものであったろう。
九多児城・クダコ
クダコ水道は上関ー弓削島へのヨットで航行する時によく利用する航路です。潮流もあり速度が2ノットくらいしかでないときもあり。クダコ島にあるこの城は難攻の城であったでしょう。 カタカナ名ばかり知っていたので九多児という漢字だとは気が付きませんでした。 ここを訪ねるのもなかなか難しいと思います。
案内板
赤矢印 九多児城
2024-7-14
高知城
山内一豊が土佐一国24万2千石を与えられて浦戸城に入った。一豊は関ヶ原の戦いでの罪人とされ、京都で蟄居処分となっていた百々綱家(旧織田秀信家老)の赦免と雇用を徳川家康に嘆願し、これが認められた。一豊と同郷近江の出身の百々は石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持ち、築城技術に優れていたと伝わる。6千石で召し抱えた百々を総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ねた。
想像していたよりもこじんまりした印象を受けた。外様ゆえに遠慮したのかもしれない。 天守と言い本丸御殿っと言い現存しているので一度は見ておくお城と云えよう。
高知城図
追手門
詰門
雨の多いところゆえに石垣を守るための雨樋
天守、 4重6階、 重文
享保12年(1727年)に焼失し、延享4年(1747年)に焼失以前のものを忠実に復元されたもの。
天守から本丸を覗く
懐徳館・本丸御殿 書院の間
黒鉄門
搦手門
2024-8-10
日和佐城
大昔の20代の時に日和佐に来たことがある。当時は日程を消化することに一杯でこの城に行くことはなかった。 ヨットで海から入港する時にお城を見ながら入るのは気分が良いものだ。 九州の平戸城、四国の川之江城なんかは良い例です。
10年ぶり位で日和佐に入港し、お城にタクシーで向かった。 運転手はもうお城はやっていないと行くのをオススメしない口ぶりであった。 まあ、いいからと行って見た。 閉館中とかで中へはいることはできなかった。 歴史を踏まえて再現された天守ではない。また、耐震に問題在りということで閉館中(敷地内立入禁止)だそうですが、改築するなら研究してオリジナルに近いものになるといいです。 平戸のように櫓や塀も造るともっと良い。
元亀・天正(1500年代の初め頃)、日和佐の豪族日和佐肥前守が、阿波の南部侵入を目指す土佐の長宗我部勢を防ぐためにこの地に城を築いたと伝える。日和佐肥前守が造った城は、天正十三(1585)年蜂須賀家政が、阿波に入国した際に廃城になったといわれているため、当時の城の形態に関しては、全くわかっていませんが、城の構えは、山城であったと考えられるとか。
日和佐城
2024-8-20