美術


旧 絵画と美術

高校のクラブと美術

グスタフ・クリムト

ボッテイチェルリの生涯

カラヴァッジオ










   高校のクラブと美術   

 
 昨年からブログを380本近く書いてきました。訳のわからない古楽やら線香ただよう宗教音楽、この先には老人の遊びと化しそうなヨットの話、絶滅した外航船員のおはなしをアップしてまいりました。まだ美術関係のブログを書いたことはありません。実は私は高校のときには美術クラブに入っておりました。デッサンもまともに書けないような部員でしたが、油絵を中心とした活動をしていました。卒業までまともな作品・絵はひとつとして描けませんでしたが。

 それでもクラブは活発なクラブでした。当時は、施設・ハコモノがまだ貧弱な時代で、県にひとつしかない美術館に定期展示会をもっていて,他高や美術団体からうらやましがられていました。 受験校でしたので、学校の方針として受験第一ですから、活発なクラブはご迷惑という方針で、部活動にいろんな規制をかけられておりました。 落ちこぼれの生徒でしたので、クラブに行くことのみが楽しみで、また受験のもろもろの空気に反発しながらも、それがあるので学校に行けていたようなものでした。 クラブでイベント・展示会に向かって、皆でやることはその後の人生に役立ったように思います。 でも卒業以来だんだんと美術そのものは興味が薄れていき、美術館へも滅多にいかなくなりました。人生の楽しみにはそれはなれませんでした。自分の楽しみ・興味はヨットや古楽のほうに向いて生きてきました。だからこのブログにあげることが少ない理由でしょう。古楽と同じでバロック・ルネッサンスの絵画はすきです。

 歳を重ねて老人になってから考えてみますと、高校段階のクラブは大切なものです。その後の人生に大きな影響を与えることがあります。クラブの同級の男子5人のうち3人は美大にすすみ、その後、絵で一生生活しているのですから。自分が好きで努力もしないで、できるものを早くみつけて、高校にそんなクラブがあるなら、入ってやっていくべきでしょう。

     2014-11-5


    高校の音楽と人生の楽しみ



  グスタフ・クリムト  

   

1862-1918

 近代・現代絵画には個人的な興味・関心がない爺爺です。 クリムトには惹かれるものがあります。 彼の絵には金沢の金箔文化が西洋に流れたのでしょうか、信長・秀吉の時代の屏風絵を見ているようなといいますか、そのようなものを感じさせられます。実際に琳派の影響をクリムトが受けているといいます。

 映画「黄金のアデ-レ名画の帰還」をアマゾンプライムで見ました。実話で、ナチスに略奪されたユダヤ人叔母アデ-レの絵をアメリカに逃れた姪が厳し裁判の末に取り戻すスト-リ-です。良い映画ですので機会があればオススメです。

   グスタフ・クリムトは彫板職人の家に生まれ、工芸学校に学び弟とともに装飾を中心とした仕事についた。劇場の装飾で大いに評価され賞を授与された。ウイ-ン大学の天井画を依頼され論争が起こりクリムトが契約破棄を求め報酬を返却した。この絵はナチスにより没収された。保守的な組合を嫌ってウイ-ン分離派を作成し初代会長を務める。1905年に分離派を脱退した。上流婦人の肖像画を多く手掛ける。1918年死去。

  


 横顔を見せる少女  1880年  東京富士美術館


 

ユデイト 1901年  ベルヴェデーレ宮殿絵画館



 


 

べ-トーヴェンフリ-ズ(上の2作)  1901-2年



 人生は戦いなり(黄金の騎士)  1903年   愛知美術館



水蛇1 1904-07年



マルガレ-テ・ストンボロ-・ウイトゲンシュタインの肖像  1905年



フリッツア・リ-ドラ-の肖像  1906年



バ-ジン  1906年



 アデ-レ・ブロッホ・バウア-の肖像  1907年



ダナエ  1907-08年



接吻  1908年  ベルヴェデーレ宮殿美術館



ユデイト2  1909年



メ-ダ・プリマヴェ-ジ  1912年


死と生   1915年



    2018-5-12


  旧船中発策  美術・絵画




    ボッテイチェルリの生涯

       ボッチチェリとルネッサンス美術展を見て


 

 受胎告知の右側部分


 

 受胎告知の左側部分


 ボッテイチェルリとルネッサンスという美術展に行ってきました。英語表記はMoney andBeauty 副題はフィレンツエの富と美です。
 大好きなルネッサンスとボッテイチェルリなので飛びついて行きました。会場に入るとすぐにフィレンツエ金貨の展示です。うーん予想外の展開です。展示の趣旨は副題のとうりです。それでは集客が悪いと、日本主催者の判断で見えにくくなっていたものと想像します。たぶん外国で英文のタイトルどうりの企画展をやっていて、それをそまま輸入したというのが実情ではないでしょうか?老生としてはフィレンツエは大変結構なんですが、勝手な思い違いでした。
 日本へ外国の展示物を多くを持ってこれない事実があるので、それ相応の絵の数です。やっぱり上野あたりの美術館の同種の展のほうが数が多いような気がしますけれども。

 今回の目玉はフレスコ画の受胎告知でしょう。243x555cmの大きな展示です。上にその左右の1部をのせました。右のマリア様の絵の稚拙さをお感じになりませんか?どこにもそのことは述べられていませんが、老生は彼の他の作品の聖母とは違和感を感じてしまいます。修復作家が書き足したものか、または弟子の描いたもののように思います?

 ボオッチチェルリはフィリッポリッピやヴェロッキオの工房で学び、独立します。メデイチ家の大ロレンツオの庇護をうけ、そこで新プラトン派の哲学者から刺激をうけて、ヴィーナス誕生やプリマベラ・春などのルネッサンスを代表する絵画を描きました。メデイチ家は資産管理もできずに散財もしすぎて破産します。ロレンツオの死後、フランスのフィレンツエ侵入を許し、メデイチ家は追放されます。その混乱に乗じてルネッサンスを否定するサヴォナローラの神権政治が台頭します。ボッテイチェルリの作品も焼却されるものがでてきました。彼もサボナローラを信仰するようになり、作品の輝きを失い,1510年に失意のうちに亡くなりました。創作には大きくその精神的なものが影響する良い例ですね。



 年      事項                      メデイチ家動向


1445   サンドロ・ボッチチェルリ生誕
1464   フィリポ・リッピの工房に弟子いり          コシモ・デ・メヂチ死去
1466-67 ヴェロッキオ工房に出入り
1472   サン・ルカ画家組合に加入


1475   東方三博士の礼拝



自画像・上の絵の右端部分

1478 ジュリアーノ・メデイチ暗殺・パッテイ家の陰謀

1477-78   春・プリマヴェーラ
     

1482 パラスとケンタウロス

 

1483  三美神を伴うヴィーナスからの贈り物を差受かる若い婦人

 

1483・5   ヴィーナスの誕生
    


 マニフィカートの聖母

1492  ロレンツイオ・メデイチ死亡
1494  メデイチ銀行解散、フランス軍侵入   メデイチ家追放
     


 サヴォナローラ神権政治
      

1498   サヴォナローラ絞首刑にされる
      今回の展示品にあり
     

1501   神秘の降誕

1503  ピエロ・デ・メデイチ水死
1510  死亡、オニサンテイ協会に埋葬


     2015-4-18