ヨットで航く 四国巡礼88ヶ所 まとめ
世界遺産のヨット泊地 五島・天草
元怒和 と 上怒和、 怒和島、 元怒和ヨット泊地、 上怒和ヨット泊地
下蒲刈 ヨット泊地 再考察
ヨットマンの聖地と云われていた弓削海の駅は最近は上関にその地位を譲りつつある。 その中間に下蒲刈がある。40マイル近くのの距離でどちらへもちょうどよい泊地となる。
瀬戸内の風は強い時には季節により東西の風が続いて吹く。 11月前後には北東の風が主風となるようだ。 その状況によりA,B,Cの3つの泊地が考えられる。
A,B<Cの下蒲刈泊地
A, 丸谷 クルーズ船用ポンツーン
西風強い時には適。 金土日月の午前中には写真左側に「島たびクルーズ船」が寄港する。 午後に着き朝早く出るのならどこに着けても問題ないようだ。 買い物と給油には不便である。
丸谷ポンツーン
ここのポンツーンが利用できない時にはすぐ近くの大型作業船が着けている漁船用ポンツーンの下図青丸の一部に空があるようだ。
赤丸は停泊地、青丸は候補地、Xは不適泊地
B, 見戸代 旧連絡船ポンツーン
赤丸 停泊地
西風が強い時には適。 すぐバス亭があるので呉に行くのには便利。
C, 向・ 上蒲刈島
赤丸は停泊地、 ポンツーンの両サイドは作業船がそれぞれ利用している
東、北東風の強い時には適。 小さな食料品店がある。弁当くらいは買える。
2024-11-20
松山 ヨット泊地 考察
道後温泉に行くために松山堀江海の駅はヨット停泊地に選ばれがちである。他の候補も知られていない。しかし、そこは北東風が強風の時は港の構造に問題があり直接に風波が押し寄せる。 ヨットが動揺して大きなフェンダーでも持たないと難儀することになる。 台風でポンツーンが壊れたこともあるといいます。堀江はガソリンスタンドが閉店して給油は不便になった。
今春に小生が立ち寄った際にはさんざん揺らされたので、今秋の寄港の際には、時化が予想された時には懲りてここから中島へ避難した。 しかし、北東風の強風でここでも悩まされる。 松山周辺のヨット泊地を探訪してみた。
松山のヨット泊地 周辺図
松山市内の泊地・三津浜には停泊余地が見当たらない
松山商業港 大可賀 ヨット泊地
ここに2泊したが大きな港ゆえにウネリが入り込み軽快ではなかった。 ナギの時には利用できるであろう。 バスにて松山市駅に行くことができる。 下図の青丸候補地はハシゴのある場所が2ヶ所あるけれども、タグや作業船のジャマになるかもしれない。
松山商業港 大可賀 赤丸は停泊地、 青丸は候補地
大可賀の岸壁 上図の赤丸の泊地、 約3mの潮差があるけれど階段はある。 ウネリに悩まされた。
青丸 候補地
興居(ごご)島のヨット泊地
興居島へは高浜よりフェリーが1時間おきに由良と泊の2ヶ所に寄港している。 料金も250円なので近くて安く便利である。船内でレンタサイクルの申し込みもできる。
かっては高速船が就航していたようでフェリーに変更になったので、そのためのポンツーンがある。由良のものは他船が利用しているようであるが、泊のポンツーンは空いているように見えた。 まずは、泊のそこを目指して利用できないのであれば、船越の緊急用ポンツーンが良いと思われる。大きなものでジャマにはならないであろう。もしダメなら横に予備のポンツーンがあるので心配ないでしょう。 高浜から電車で松山市駅にいくことができ市電で道後温泉に行くことが出来る。
由良のポンツーン、 空はないようだ
泊のポンツーン
緊急バース、 右には予備バース、ここならいつでも良いか?
伊予のヨット泊地
この港は諸風を防ぐので東西の強風でも都合が良い。 欠点は潮差により岸壁が高くなるので低潮時に入港すると。もやいを取るときにも岸壁に上がれないので、通りかかった釣り人に頼むしかなくなる。
伊予の駅から伊予電鉄にて松山へ行くことができる。買い物もコインランドリーも便利である。
伊予港
2024-11-26
忽那諸島 ヨット泊地 まとめ
忽那諸島 ヨット泊地 図
松山堀江海の駅 ガソリンスタンド遠い
松山 三津浜・大可賀
中島 中島・大浦
怒和島 元怒和
柱島 山口県岩国市
情島 山口県周防大島
2024-12-30
野忽那島
忽那諸島の連絡航路図
野忽那島
睦月島より高速船に乗り野忽那島へ行く。 忽那海賊の縁の地を探しながら、何も見つからず、皿山展望台ヘ登る。 恐らく砦跡か見張り台があったと想像されるが説明案内が無い。 そこから眺めると南東には村上海賊の鹿島、西の興居島北の倉橋島、仲間の睦月島と中島が見られる絶好の見張り位置である。
野忽那島からの展望
皿山展望台にあった灯台か砲台と思われる跡
島にはお店がないので連絡船待合所で昼食を食べた。 なおフェリ-には時間帯によると思うが売店でお弁当を売っていた。
なぜかしらお風呂屋の廃業跡がグ-グルマップにも載っていて見てきた。こんな孤島に風呂屋があったのが稀有なことなのであろうか。
風呂屋跡
野忽那島 ヨット泊地
青丸は候補地
泊地候補は高速船のポンツ-ンの上図左側、フェリ-岸壁に並ぶ階段のあるところ、長い防波堤、湾奥にあるポンツーンが考えられる。北東風の強風になやまされたが、緊急の非難であれば、ここでもしのげそうな気がした。
高速船用ポンツーン
2024-11-28
元怒和 と 上怒和 怒和島
忽那諸島へは中島汽船が運行しており、いずれの島へも高速船とフェリ-が就航しており時刻により選択できる。 松山の三津浜・大可賀に係留していたので、怒和島へ行くには、下図のごとくフェリ-に乗り三津浜から二神島へ、そこから高速船で津和知島を経て怒和島に着いた。帰りはフェリ-で神浦により釣島を経て三津浜へ戻った。
怒和島にある。元怒和と上怒和を訪ねた。元怒和より上怒和へはフェリーで行く、バス便は無いけれど徒歩で1時間もあればそこに着くとのことである。 まあ、通常は2時間ほど次の便を待つことになるので、それもアリでしょう。
忽那諸島の中島汽船路線図
元怒和と上怒和、
怒和島 周辺図
元怒和
忽那諸島は冬の北西風を避けるべき位置に集落が歴史的に発展してきた。 元怒和も上怒和もそのような位置にある。 元怒和は今秋に悩まされてきた北東風を防ぐ位置にある。
季節の変わり目に吹く強風は今年は11月8日まで続いた。 家に帰ったその日以降、天気は安定してきて今日12月6日まで晴天である。 これから寒くいなる12月中旬までが、本当との秋のクル-ズ日和になるのでしょう。 9月下旬に母港の岡山に出かけた、夏を思わせる暑い日が続いた。 10月中旬に巡航を出発したが、風待ちの日が2/3を占めることになった。
元怒和の歴史的建物
漁港近くには歴史を感じる建物が在る。 厳島神社と延福寺を訪ねた。
延福寺
元怒和厳島神社
元怒和 ヨット泊地
高速艇の時刻表を見て利用が無い時間を探す。 防波堤側なら空いていそうであるが、スペースが狭く水深には注意が必要と思われる。徒歩10分ほど北に新しい漁港があるが、水深と風によるウネリの侵入には注意が必要である。
連絡船ポンツーン、 写真の奥側の防波堤側が候補地
青丸は候補地、 北東の強風の時は上怒和より元怒和のほうが停泊にふさわしいと思われる
上怒和
元怒和から高速船で上怒和まで行く。 ここから中島の西中と神浦へ行く便がある。 高速船で神浦へ航き、連絡バスで中島・大浦へ帰った。
港入り口付近の鼻から海岸沿いを15分ほど歩いた。 建物は古いものは無くて昭和になり建て替えされたようで、レトロとも言えないので感慨は無い。
下記写真の鼻の小山はいかにも海賊砦の立地であるが、説明が見当たらなかった。
入り口の鼻、 いかにも海賊砦みたい
上怒和 ヨット泊地
漁港は予想外に小さめで入り口にフェリー岸壁と高速船ポンツーンがある。 漁船用ポンツーンもあるが地元の人が使用しているようだ。 高速船が使用しないポンツーンの陸側がねらい目だと思われる。
買い物と給油は不便。
上怒和港 青丸は停泊候補地
上怒和 高速船ポンツーン 陸側が空いている模様
2024-12-6
釣島
瀬戸内海西部 釣島
釣島は船乗りをしていた若い頃に、釣島水道を航行するには潮汐表を調べていたので、おなじみであったが、実際にヨットで今回初めて立ち寄りそこを目の当たりにした。 ここは関門や来島のような強流ではないので、今は老いてヨットに乗っているけれど気にしていなかった。
今秋の忽那海賊を訪ねるクル-ズでは、泊地の下調べにてフェリ-に乗っていた。港内の写真を撮るべくサイドに移ろうとしていた時にフェリ-の行き足が強かったせいでガツンと岸壁に衝突した。 老生は港内の写真を撮るべく、自分の席を離れてサイド甲板へ移動中であったので頭と肩を柱にぶつけた。 幸いにも翌日になってもヒドイことは無く単なる打ち身で終わった。
釣島
忽那諸島のひとつである。 人口80人ほど、分校の小学校があり、中学は無い。 タコ漁とかんきつ栽培を生業としていっる。釣島灯台が松山市の有形文化財になる。
釣島 ヨット泊地
港内をヨットでぐるっと廻っただけで、もやいを取ったわけではない。 狭いので空いていても漁船が帰って来る確率は高い。 高速船の時間を調べて利用しない時間帯をよく確認すること。 地元の人に良く聞いてジャマにならなければ宿泊が可能でしょう。そうでなければ、 一時利用になるのでしょう。
青丸は候補地、 高速船ポンツ-ン
フェリー岸壁には、行った時には病院への運搬船が係留していた。
青い立柱の高速船ポンツーンがある、奥の岸壁には階段が数か所あるが、地元の漁船が利用している
2024-12-9
二神島
二神島へは時間によりフェリ-と高速船の便がある
三津浜よりフェリーに乗り二神島へ行く、帰りは高速船で津和知島へ向かった。
二神水軍のゆかりを訪ねるべくこの島に向かった。 かつて、瀬戸内海の一方の旗頭であった忽那水軍の勢力も忽那義範以後は一族を率いる強力な後継者に恵まれず、辛うじて河野氏の家臣に連なり衰退の一途をたどった。 戦国時代には海賊の主流は村上氏や二神島の二神氏に移っていった。
二神氏は長門の国・豊田から来たと云うが元々二神家はここにあったという。河野氏に属したようだが、その滅亡とともに庄屋として存続した。 現地には何も案内が無い。 城の山イブキ自生地があり、いかにも海賊砦の立地のようなであり、また、城山の地名があるので、そこは砦跡なのかもしれない。
城の山 イブキ自生地
安養寺、 電気柵に囲まれていた。 二神家の墓地があるというが見つけられなかった
二神島 ヨット泊地
青丸は候補地、 新旧高速船の二つのポンツーン
高速船の旧ポンツ-ンがあるので、そこは良い停泊候補地になる。
左がフェリー岸壁、 右は赤色の新高速船ポンツーン
旧高速船ポンツーン
2024-12-11
津和知島、 ヨット泊地
二神島より高速船に乗り津和知島へ来る。帰りはフェリ-にて元怒和へ渡る。
津和知島 周辺図
津和知島は遣隋唐使の時代から風待ちの湊である。 現地に行ってみると北東風の強風にはここは少し弱い印象を受けた。その時には対岸の元怒和へ逃げれば良いようにも思われる。
中世・近世の航路図
松山藩が寛永13年(1636年)、直営の公儀接待所として設けた「お茶屋」跡が診療所の裏にある。そこは津和地湾のほぼ中央に位置し、面積は1423.17平方メートルある。広さ89畳半の「お茶屋」、41畳の御長屋などの宿泊・接待施設をもち、津和地瀬戸を上下向していた長崎奉行以下幕府公儀役人の接待や西国大名の便宜を図っていたとある。
お茶屋跡
海岸沿いに徒歩にて南下15分ほどで津和知八幡神社に着いた。 なんと八幡神社の多いことよ。海上安全と豊漁を願うので他の島にもあるのは当然か。
津和知八幡神社
津和知島 ヨット泊地
高速船ポンツ-ンが利用できる。 時刻表で入港時期を調べておくと良い。 停泊時間は短くて着いて5分もすれば次に向かいますが。
徒歩10分位の新港がある。ポンツーンと岸壁が候補地になるが、風向きによりウネリが入るようである。お店は見当たらないので買い物は不便でしょう。
青丸は候補地、 お茶屋跡
高速船ポンツ-ン
新港の階段のある岸壁、 うねりに注意
2024-12-12
青丸は候補地
興居島・ごごしま
高浜より泊と由良に1時間おきにフェリ-がでているので安く/250円便利である
興居島へは高浜よりフェリーが1時間おきに由良と泊の2ヶ所に寄港している。 料金も250円なので近くて安く便利である。船内でレンタサイクルの申し込みもできる。
かっては高速船が就航していたようでフェリーに変更になったので、そのためのポンツーンがある。由良のものは他船が利用しているようであるが、泊のポンツーンは空いているように見えた。 まずは、泊のそこを目指して利用できないのであれば、船越の緊急用ポンツーンが良いと思われる。大きなものでジャマにはならないであろう。もしダメなら横に予備のポンツーンがあるので心配ないでしょう。 高浜から電車で松山市駅にいくことができ市電で道後温泉に行くことが出来る。
2024-12-19
柱島
柱島について知っていたことは連合艦隊の柱島泊地のことである、ここに集結して真珠湾攻撃に向かったという。 確かに呉湾では大艦隊が停泊するには少し狭い気がする。
赤星印は連合艦隊柱島停泊地
柱島 周辺図
中島より情島と柱島に立寄り倉橋島海の駅へ航海した。 村上海賊の城跡と赤禰武人墓への興味を持ったが後日に残した。
柱島外防波堤 白灯台
柱島 ヨット停泊
赤丸は係留地、 青丸は候補地
湾奥に階段のあるスペース(赤丸)が有ったのでそこへ係留した。狭いので出る時に後ろの漁船の錨索にからみそうになった。
柱島 係留地
2024-12-23
神浦かんのうら・中島 ヨット泊地
神浦
ここは北東風が強い時に、中島・大浦の東線連絡船航路が運航中止になっても西線航路が動いており、松山への交通は確保されている。 ヨットはそうはいかないけかもしれないけれど。
青線は西航路、 赤線は東航路
泊地候補は高速船ポンツーンの利用されない側のみで、他に良いところは見あたらない。 天気の悪い時には風向により他の場所を探すべきであろう。
高速船ポンツーン
2024-12-25