村上水軍


熊島城  熊島村上水軍博物館

村上海賊の城

村上武吉

忽那水軍史 「あしら」を海賊と呼ぶな!  忽那裕三

瀬戸水軍の終焉

 

 

 

 




 

   熊島城  熊島村上水軍博物館

  宮窪の瀬戸は大島と伯方島の間の狭い水路・瀬戸で10ノットにのぼる潮流があります。
現在の海図を眺めても暗礁がところどころにあり、とてもそこにあった熊島城にはヨットでは接近できません。 モ-タ-ボ-トのない昔では難攻不落のお城であったでしょう。 でもサイズ的には大きなものではありません。

 

   熊島水軍城

  近くの大島に村上水軍博物館があります。大三島宮浦から今治行きの急行バスに乗って島内バスに乗り換えて行ってきました。


  

   村上水軍博物館


  予約をすると博物館近くから熊島に上陸する観光船があります。通常は潮流体験のようです。

 熊島村上水軍は長男が相続しただけあって最大の海賊衆であった。 毛利氏の盛況の契機となった厳島の戦いで大きな貢献をした。 また、信長との、石山本願寺に兵糧を運ぶ、木津川口の海戦で、毛利に与して勝利しました。 しかし、 秀吉に疎まれて追放された。
  
  

   雨の熊島 向こうにしまなみ海道の伯方大島橋が見える



  

   伯方島に向かうフェリ-から見た 熊島



         2016-8-1




        村上海賊の城


村上海賊の城  (今までに訪れた)


 ① 備後茶臼山城

 ② 岡島城
 ③ 余崎城


 ④ 馬神城
 ⑤ 青木城
 ⑥ 青陰城
 ➆ 長崎城
 ⑧ 俵崎城
 ⑨ 茶臼山城
 ⑩ 甘崎城
 ⑪ 能島城
 ⑫ 来島城
 ⑬ 鹿島城
 ⑭ 美可崎城
 ⑮ 千守城
 ⑯ 亀山城
 ⑰ 岩城新城


     2022-1-6





     村上武吉・むらかみたけよし 1536-1604

 

      講談社刊



 

 能島海賊 村上武吉の海賊城
        


 

 青字 能島海賊城、 赤字 来島海賊城、 紫字 因島海賊城


 村上武吉は宣教師のルイス・フロイスにより日本の海賊王と評された。その村上武吉が書いた兵法書(村上舟戦要法)が秋山真之によって日露戦争での日本海海戦に貢献した。また、日本の海運業の主要部分を占める愛媛船主、最近の巨大コンテナ船がスエズ運河座礁事故を起こした船主の今治造船など現在にも彼の遺伝子は大きく日本に影響を与えています。

 村上武吉は因島、来島、能島村上家の頭領というべき能島村上家に1533年に生まれた。能島騒動と言われる家督争いで敗れて九州の菊池家に避難して育つ。叔父の笠岡に拠点を持つ村上隆重の支援を受けて能島に帰り当主を奪還する。陶春賢と毛利元就の戦い・厳島の戦い(天文24年・1555年)では毛利に加勢したと言われています。

 
 能島・来島・因島の三家の村上家は同族意識を持ちながらも組んだり離れたり独自に動いた。 当時の陸地勢力を概観すると九州の大友氏、中国の大内氏・陶氏,安芸の毛利氏、山陰の尼子氏、備中備前の浦上氏、四国の河野氏、近畿三好氏と織田氏らの勢力の伸長に影響を受け村上武吉は挙動した。 彼の最盛期には東は塩飽列島の本島、西は上関や下関の赤間に関を設け本拠地の能島とその支城群で瀬戸内一帯を支配した。


 毛利元就が死去すると村上武吉は毛利氏から大友氏につく。毛利の小早川隆景が能島城を攻めた。来島や因島村上は小早川に従う。孤立した武吉は降伏して毛利家に組み込まれる。 武吉は毛利と織田が対立した第1次木津川の戦いに出て勝利したが第2次では敗れる。豊臣秀吉の中国攻めでは来島村上家が秀吉につく。それで武吉は対立した来島を占領する。しかし本能寺の変後に秀吉と毛利は和睦し、武吉はこれに加わらなかったので再び小早川に攻められて能島を明け渡す。1588年秀吉による「海賊停止令」に背いたと詰問された。安芸竹原(鎮海山城)や筑前に移る。小早川家が隆景から秀秋へ代わると筑前を離れて、再び竹原に戻る。 能島村上の家督を嫡男の元吉に譲り、元吉は文禄・慶長の役で朝鮮で戦う、関ケ原の戦いでは西軍で戦い元吉は死亡する。毛利は防長2か国に厳封され三田尻で船手衆を務める。1604年武吉は72歳で死去。

 秀吉の全国統一と「海賊停止令」により独自の海賊衆としては終わる。 海賊といってもこの武吉の時代までには船荷を襲うようなことは無かった。 武吉の時代には海賊へ警固料を払って海賊を乗せる「上乗り」と呼ばれるシステムがあり、襲われないことの他に潮流の複雑なこの海域を水先人のように航行の安全をはかっていた。 武吉は文化的素養も高く大山祇神社で催された連歌会での多数の連歌が残されている。

 個人的には3年ほどかかってヨット巡行で訪れた地や城が関連付けられて、村上武吉によりまとまってきたように思える。 また、新たに訪れたいところが増えたようだ。


 村上来島海賊
  http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-9 


 村上水軍まとめ
  http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank053.html から


 甘崎城
 http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-221
 
 笠岡城
 http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-675 


 本太城
 http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-704 


 鹿島城と得意通幸
 http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank053.html#鹿島城 


 新居浜大島と村上義弘
 http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank053.html#新居浜大島 


 上関
 http://hayame.net/custom11.html#spb-bookmark-329 

 毛利元就の調略
 http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-318 


   2021-5-11






     忽那水軍史 「あしら」を海賊と呼ぶな!  忽那裕三



    アルハオス出販

 

中島・忽那島に天候待ちでヨットを予定外に停泊させるまで、この地のことは何も知らなかった。 ここは忽那(くつな)海賊の本拠地であったのだ。 ニワカの知識で海賊城を訪れる。クル-ズを終えて時間ができたので家に帰ってから本書を購入した。

 瀬戸内の海賊といえば村上海賊や塩飽海賊のことは興味を持ち。ヨットでそこを訪ねている。

    村上水軍・海賊 まとめ

   塩飽海賊 、 人名政の島

   河野水軍

 

  この書によると、忽那諸島に謀反の濡れ衣を着せられ、都より逃れて来た一族がその島々を開発し、また、どのような経過をたどり伊予の本土を開発した一族であったかを解き明かしている。

 平安末期・偶然としか言いようが無い厚遇を得て、朝廷の高官より伊予の年貢米の海運を任され、その船舶を防備する水軍を組織する。そして、九州の長講堂領(上皇領)の年貢米の輸送も手掛け、一族は莫大の資を手にした。 積荷の40%位のお金を得たという。 その資をもって、南朝の旗印を掲げ南朝の水軍として瀬戸内海を制覇し、征西将軍として九州に赴く後醍醐天皇の皇子、懐良(かねなが)親王を中島に三年間お護りし、鹿児島から熊本そして大宰府に征西府を成立するを援助した。 荒廃した南朝政府の所領(国衙領)を忽那一族は恩賞として受領。伊予の北吉田に忽那山城を構え、海運で得た多大な資本投じ、荒廃した伊予の各所(北吉田・別府・野間郡大西・風早郡北条・和気郡・久米郡高井・伊予郡松前鶴吉・同北河原・他)を開墾開発し、南北朝期より室町期の開発地は未だ忽那を名乗る集落として存在する。

 

 忽那山城 周辺図 

 

  塩入荒野の開発・海浜の土木開発とは

 忽那一族は3万石を超える荒野を干拓し農耕地に開発した。その方法は3-4mに及ぶ瀬戸内の干満の差を利用して、遠浅海岸で堤防を築きその内水面の海水を潮差で排出して耕地を造成した。その技術と動員できる人を彼らは持っていた。

 瀬戸内の一水軍が、平安時代末期の朝廷貴族から、武士を中心とした鎌倉・南北朝・室町時代の、武家政権の中枢とも関わりを持ち続け、室町幕府の日明貿易にも関っている。著者は現地に足を運び神社・仏閣等に、五〜六百年前の残り少ない史料(木簡・位牌等)を見出し、伊予の中世史を新たな側面から論じている。

 忽那氏の勢力下にあった島々は「忽那七島」と称され、愛媛県に属する忽那島(中島)、睦月島、野忽那島、二神島、怒和島、津和地島に加えて、山口県岩国市に属する柱島を含める

  忽那七島

 

  忽那七島は中世の航路を支配する絶好の位置にある。

 

  中世・近世の航路図

 

   2024-9-11

 

 

 

 

   瀬戸水軍の終焉

  

           祥伝社文庫

 

 海賊はカリブの海賊のように金銀財宝の積荷を奪うようなイメージがある。 しかし、日本は植民地を持っていたわけではないので、地方の荘園のお米を京にいた荘園主に運んでいた積荷がメインであった。日本の海賊は襲ってもコスパは悪く、次第位に帆別銭・警護水先料を得るようになる。

 戦国への時代が進み、厳島の戦い、第1・2回の木津川の戦い、文禄・慶長の役、秀吉の海賊停止令、関ケ原の戦いを経て日本の海賊は終焉を迎えた。藩の水軍として生き延びることになった。また、海から離れたところに領地・住まいをもつことになった。

 

村上海賊、 能島・来島・因島の三家の村上家は同族意識を持ちながらも組んだり離れたり独自に動いた。来島や因島村上は小早川に従う。能島は大友について他と対立するが、能島も毛利に加わる。 木津川の2回の海戦で勝利し敗北をする。関ケ原で毛利は敗れて,船手衆として残る。来島村上家・久留島家だけが大名として維新まで残る。

   村上水軍 まとめ

忽那海賊、  南北朝時代に忽那氏は後の真田氏のように両天秤を懸ける。兄は北朝、弟は南朝である。征西将軍として九州に赴く後醍醐天皇の皇子、懐(かね)良(なが)親王を中島に三年間お護りし、鹿児島から熊本そして大宰府に征西府を成立するを援助した。南北の抗争の週末とともに次第に消えていく。

 

九鬼海賊  九鬼嘉隆は長島の戦いに参戦し鳥羽に拠を移す。木津川の海戦で鉄甲船で勝利する。信長・秀吉に信頼された。関ケ原では自分は西軍に息子は東軍に属し敗北して自害した。九鬼氏は摂津の三田と丹波の綾部の2藩で5万5千石で維新まで続いた。

  https://www.youtube.com/watch?v=g31JXN4Mo3o

塩飽海賊  毛利方に与していたが石山本願寺合戦で信長に味方する。信長、秀吉、家康から朱印状を得て御用船方となる。人名政のもとで自治権を持つ。幕末には咸臨丸の主な水夫として活躍する。船大工としての伝統ものこる。



河野海賊  源平合戦の屋島壇ノ浦の合戦で源氏方として活躍。元寇の役で九州に出陣。南北朝期、北朝に属した河野水軍は、南朝方についた新興勢力・三島村上水軍や忽那(くつな)衆と対峙した。通常倭寇は北九州の対馬・壱岐・松浦を中心とした漁民・浮浪民などの海賊集団と考えられていますが、瀬戸内海の水軍もその一翼を担っていた。 秀吉の四国征伐に屈服。小早川氏に庇護をうける。

 

   2024-9-15